戦後体験から芽生えたアメリカへの憧れ

戦後体験から芽生えたアメリカへの憧れ

 沖縄は第二次世界大戦中、日本で唯一、地上戦が行われた土地です。父は防衛隊、1番上の兄は満州に徴兵され、兄姉たちは熊本に疎開しました。10人兄弟の6番目で当時5歳だった私は、祖母に連れられ北部の山原へ逃げ、家族はバラバラになりました。その後、戦後の食料不足で3カ月程何も食べれなかった時、アメリカ軍がクッキーやミルクを配るのを見て、「アメリカはなんて豊かな国なんだろう」と子供心に感動し、アメリカに行きたいという気持ちが芽生えました。アメリカには叔父がおり、彼が帰省する度にナイアガラパークウェイやヨセミテ国立公園のスライド写真を見せてくれました。その時、アメリカの美しく雄大な自然を目の当たりにし、こんな場所にぜひ行ってみたいと思ったのも渡米を決めた要因のひとつです。そして高校卒業後にアメリカの大学に留学することを決意しました。

 アメリカの叔父はビジネスに成功し、引退後にシルバーレイクに大きな家を建てて暮らしていましたので、渡米後最初の2カ月間はその叔父の家で暮らしながら、アダルトスクールで英語の勉強に励みました。その後は、ロシア系アメリカ人の老夫婦の家庭で、食費や部屋代を免除してもらう代わりに、毎日夕飯の支度をしたり、掃除をしたり、庭仕事をしたりするスクールボーイという住み込みの仕事をしながら、East Los Angeles Collegeに2年半通いました。そこから4年制大学に編入学し、Woodbury Universityで国際貿易の学士号を取得しました。たった60ドルのみを手にアメリカに来たのですが、アルバイトをしながらこつこつ稼いで、大学の学費は全部自分で出しました。ハリウッドの有名な「Daddy Duck」レストランで皿洗いを夕方から朝の8時までしたり、バスボーイでコーヒーを注いだり。スーパー・マーケットでは会計後の商品を袋に詰めるボックスボーイという仕事もしました。

 大学卒業後は、学生時代からアルバイトをしていた日の出豆腐(現・日の一豆腐)に就職し、スーパーバイザーとして約10年働き、技師として永住権を取りました。その当時、既に結婚し子供も2人いましたので、根気強く働きましたが、せっかくアメリカに来ているのだから、アメリカの会社で働きたいという思いが強かったため退職し、ラッキー・ストアー株式会社(現アルバートソン)に転職。定年になる2001年まで21年間働きました。

日本文化継承のため奉仕活動を決意

日本文化継承のため奉仕活動を決意

(左)普天間高校時代の1枚(1950年代後半)

(右)East Los Angeles College在学中の一枚。シルバーレイクにて

 当時、働きながら常に私の頭にあったのは、「どこの国で生活をしても日本の伝統文化を大事にしなくてはならない」ということでした。自分の子供が成長したら、日本語学校に行かせ、自分の国の言語や文化を継いでいってもらいたいという思いから、日本語学校の手伝いをしようと決心し、仕事をしながら奉仕活動を15年行いました。1985年から「羅府上町第二学園」という日本語学校で理事長を3年間務め、1987年からは、沖縄県人会で本格的に活動し始めました。沖縄は非常に独特な文化を持っており、特に民謡、古典、舞踊、太鼓や三線などの琉球芸能は、全国的にも有名で人気があるので、アメリカにそれらを紹介しながら、若者の育成にも繋げていけると考えたのです。

 そこで、沖縄県出身者に限らず、沖縄に縁もゆかりもない人でも沖縄文化に興味のある人は、沖縄県人会に参加できるように門戸を拡大。参加者には好きな芸能のグループに入って活動してもらったり、沖縄県がサポートする、県費留学システムを作り、若者を琉球大学、沖縄県立芸術大学、名桜大学、沖縄国際大学などに送り、沖縄で実際に様々な体験をしてもらいました。しかし、そこで問題になったのが、沖縄の言葉です。文化と一体であるはずの沖縄の言葉を知らないまま、踊ったり、三味線を弾いたり、歌ったりする人がほとんどでした。これはまずいなと思い、沖縄語のクラスを作ることにしました。

日本で途絶えた沖縄語を海外で今も広める

日本で途絶えた沖縄語を海外で今も広める

(左)2003年、ウチナーグチ教室の開講1周年記念祝賀会にて。お祝いのケーキをカットする比嘉さん

(右)ウチナーグチ教室では、自作の英語とウチナーグチの辞書やテキストなどを駆使し授業を行う

 2002年にウチナーグチ(沖縄語)教室を始めました。沖縄が琉球王国という独立国だったこ頃から使われていた伝統的な首里の言葉を、会話を中心に学ぶクラスです。言葉そのものだけでなく、琉球の歴史や文化的背景に沿って様々な角度から沖縄を紹介していきます。日本語を使って教えても、日系2世3世の受講生たちは理解できないので、英語とローマ字を使って教えています。例えば、「お元気ですか」は、ウチナーグチの発音で、「チャーガンジューヤミシェーミ」と言います。それをローマ字で表記し、その下に、How are you?とまた英語に訳したものを書きます。2人組になって会話形式で練習をしていきますが、相手が「チャーガンジューヤミシェーミ(How are you?)」と質問したら、「ウー、ガンジューソーイビーン。ニフェーデェービル(Yes, I’m fine. Thank you.)」と答えるわけです。英語を使って教えるこの方法を確立するのに苦心しましたが、お蔭様で生徒6人でスタートしたクラスがわずか1年のうちに40人を超えました。2012年にようやく10周年を迎えることができ、踊りや三味線を交え、全部ウチナーグチで行う発表会を盛大に開催しました。達成感を感じましたし、やって良かったと思います。

 実は、首里の言葉はもうほとんど沖縄では使われていないんです。1879年の廃藩置県によって日本政府が日本語を使うように定めたので、沖縄語は使えなくなりました。現在は、日本に沖縄語普及協議会があり、そこで沖縄語を教えている先生方が30名以上いるのですが、海外でも伝統的な王朝時代の言葉が残っていると非常に喜んでくれています。

1度決めたことは何があっても続けること

1度決めたことは何があっても続けること

長年の功績が認められ、昨年11月には在ロサンゼルス日本国総領事館より総領事表彰を受賞。新美潤総領事(右)から表彰状を授与された

 「戦争体験をしたのだからどんな苦労にでも耐えていける。あんたは何でもできる」と日頃から両親に言われて育ちました。そして「これだと思ったことは、迷わずにやれ。やるからには、徹底してやれ。途中で絶対に放り出すな。いったん始めたら、何があっても投げ出すな」という父の言葉を常に心に秘めて生きてきました。忍耐強く続けていれば、必ずいつか成功に繋がると私は確信しています。

 そして日本人であろうと、沖縄人であろうと、どこで暮らそうと、我々は日本の伝統文化や言語、日本人の心を忘れてはなりません。アメリカナイズされてアメリカ社会に溶け込むのではなく、日本人としてのアイデンティティをしっかり持つべきです。アイデンティティをしっかり持っていればどこに行っても怖くない。恐れることもない。日本人であることを誇りに思って、皆と対等にアメリカ社会に進出してほしいですね。

チャンプルによって若者に継承できる活動を

チャンプルによって若者に継承できる活動を

2011年東日本大震災被災地への義援金を在ロサンゼルス日本国総領事館に届けた。伊原純一総領事(当時・右)、松岡八十次南加県人会協議会幹事(左)と共に

 現在は沖縄語クラスと、39の県人会が加盟する南加県人会協議会の創立50周年記念行事に実行委員長として全力を注いでいます。また、2011年3月11日の東日本大震災の際には募金活動を行い、在ロサンゼルス日本国総領事館を通して日本の赤十字に義援金を送りましたが、この支援活動は今も続けています。東北の復興は1年だけでは済みません。10年、20年と続けていかなければ支援になりませんので、長期的に支援をしていこうと思っています。

 また、以前日本語学校のあさひ学園オレンジカウンティー校で世界恒久平和がテーマの授業をした際、沖縄の地上戦の話を子供たちにしたことがあります。沖縄がどこにあるのかもわからないし、日本とアメリカが戦ったことすら知らない子供たちがいました。原爆の話ならば、映画などを通じて知っていても、沖縄で起こった戦争の知識はないのです。そこで、20万人以上の沖縄県民が亡くなったこと、アメリカ兵、日本兵を合わせて亡くなった人たちは25万人以上にも上ること、沖縄戦跡国定公園には平和の礎があって、そこには国境を越えて、すべての人が祭られていることを話しました。子供たちが、その意味を理解し、ここから平和への願いを世界に向けて発信してほしいと願っています。

 実際、沖縄には日本にある75%のアメリカ軍の基地が集中していますので、当然私の子供の頃は反米感情もありました。しかし、アメリカは、良いこともいっぱいしているんですよ。例えば、琉球大学という国立大学を建てたのはアメリカなんです。そこから当時アメリカに留学生を送り、彼らが戻ってきて、若い人たちを教育している。沖縄を立て直すのにアメリカ軍が相当のお金を費やして道を作って来たのも事実です。これからもウチナーグチ教室、琉球舞踊や空手などの実践を行いながら、こうした歴史を通しても子供たちを教育して、平和を発信していくつもりです。

 南加県人会協議会も沖縄県人会も、多くの先輩方が今まで時間をかけて土台を作ってくださったから今日も続いているんです。それを維持して少しでも大きくしようという気持ちが大切です。現在の会員には5世もいて、日本語がわからない人が増えてきたので、沖縄県人会はすべて英語で運営していますが、まだ300人ぐらいいる1世の人たちのために日本語の記事もニュースレターに掲載しています。このように、時代に合った県人会の活動をしていくことが継続するための秘訣ですね。

 ゴーヤチャンプルという沖縄料理がありますが、「チャンプル」とはミックスという意味。沖縄文化には、東南アジアや中国の文化がすべてミックスされています。その良い所だけを取ったのが、現在の沖縄の芸能です。良い所を取って、ミックスし、新しいものを編み出す。伝統も大事だけど、新しいものの良いところも取り入れていくことが大事です。芸能と同様に、県人会も他の日系社会の色々な団体も、先人たちが残した伝承物を守りながら今の時代に合った新しいものを取り入れることで、次世代への継承へ繋げていってほしいと思っています。

 今は子供たちも大きくなって、長男は結婚していますし、次男は僕が授業をする時には、色んなことを準備してくれますので助かっています。私も体力が続く限りこれからも続けていきたいと思っています。


沖縄民間大使、ウチナーグチ(沖縄語)講師 比嘉朝儀氏

Chogi Higa■1940年沖縄県中頭郡中城村生まれ。普天間高校卒業後、60年に渡米。70年Woodbury University国際貿易学科卒業。85~87年羅府上町第二学園理事長を務め日本文化の普及に貢献し、2001年以降は、北米沖縄県人会会長として活躍する傍ら、沖縄語を学ぶ「ウチナーグチクラス」を開講。06年には沖縄民間大使に任命されたほか、11年には南加県人会協議会会長に就任し、ロサンゼルスの日系社会のパイオニアとして、半世紀余りの間、奉仕活動に尽力している。日本文化と沖縄文化の普及と継承に対する多大なる功績を讃え、昨年11月には在ロサンゼルス日本国総領事館より総領事表彰を受賞


2014年04月号掲載