映画の聖地

映画の聖地

ロサンゼルスは、世界中に知られる映画の聖地。
毎日たくさんの映画がこの街で生まれ、
作られ、世界各地で上映されている。
この特集では、ロサンゼルスとは切っても切り離せない
ハリウッド映画の始まりについて紹介しようと思う。

映画の始まりはエジソンによる34秒の動画

映画の始まりはエジソンによる34秒の動画

(左)映画を発明した発明王トーマス・エジソン

(中央)キネトスコープパーラー(通称ピープショー)

(右)キネトスコープを見ている人

 映画を発明したのは、かの有名なトーマス・エジソンだというのはご存知だろうか。電話や蓄音機、録音機など約1500もの品々をこの世に送り出した天才発明家の彼が、写真を動かすことを試行錯誤した結果、1893年に動画撮影機械キネトグラフと、それを観るためのキネトスコープを発明。これが映画の始まりと言われている。しかし、映画と言っても現在のように大型スクリーンに動画が映し出されるわけではなく、当初はキネトスコープを使って1人で覗き穴から動画を観るというものだった。

 エジソンは同年5月に、初のキネトスコープ上映会を行ったが、キネトグラフで撮影し、キネトスコープで一般に公開したものは何だったのだろうか?それは『Blacksmith Scene』と名付けられた映画で、鍛冶屋が鉄をたたいているだけの34秒の動画だった。

 1894年、エジソンは映画撮影スタジオをニュージャージーに設立。このスタジオは、光が入らないように外観が真っ黒に塗られていたことから「ブラックマリア」と呼ばれていた。この年、キネトスコープが10台程度置かれた専用のキネトスコープ・パーラー(通称ピープショー)が全米各地に作られた。1セントで数分程度の映画を約10本見ることができるということで人気を博し、大成功を収めた。そしてキネトスコープは徐々にヨーロッパにも広がっていき、世界中が映画の誕生に沸いた。

 しかし、1人でしか映画を楽しめないこのスタイルは興行的にも限界があり、一度に大勢で映画を楽しむことができる機械の開発が待ち望まれた。

たくさんの人が同時に動画を観る

たくさんの人が同時に動画を観る

(左)『The Arrival of the Mail Train(列車の到着)』の列車到着シーン

(右)リュミエール兄弟のシネマトグラフ

 エジソンと並んで「映画の父」と称されるフランスのリュミエール兄弟は、キネトスコープを観て衝撃を受けた父親から「これからは映画の時代だ」とけしかけられて動画の研究を開始。たくさんの人が同時に動画を観ることができる映写機の試作を重ね、1895年に大型スクリーンに動画を上映するシネマトグラフを発明した。これが、現在の映像機器の基となっている。また、同時期にアメリカではトーマス・アーマットがファンタスコープと呼ばれる転写機を開発したが、後にエジソンがこの権利を買い取り、バイタスコープとして発表した。

 初期の頃は、特にストーリーもなく、定点カメラで日常生活の一場面を映した数分程度の動画が中心だった。それでも、「動く写真」を見たことのない人々は、それに感動し魅了された。特にリュミエール兄弟がシネマトグラフ発表の際に上映した、『The Arrival of the Mail Train(列車の到着)』は、電車の到着の様子を駅で撮っただけの映画だが、迫りくる電車の大迫力に人々は驚き、映画館中で叫び声が響いていたという話まで残っている。

ストーリー性と撮影テクニックの発展

ストーリー性と撮影テクニックの発展

(左上)『A Trip to the Moon(月世界旅行)』で宇宙船が月に着陸した瞬間のシーン

(左下)観客に向かって拳銃をぶっ放した『The Great Train Robbery(大列車強盗)』のエンディング

(右)テクニカラーを使用したフルカラー映画初期のころの代表作『The Wizard of Oz(オズの魔法使い)』。1939年公開

 単なる日常生活の記録を写しただけの動画は次第に飽きられ、ストーリー性のあるものが望まれていった。ストーリー性があり、複数のシーンで構成された最初の映画は、1902年にマジシャンのジョルジュ・メリエスが作った『A Trip to the Moon(月世界旅行)』だと言われている。月に行って月人に会うという内容で、長さは約10分ほどの作品だが、すべてがスタジオセットで撮影された。このジョルジュ・メリエスの話は、2011年公開の映画『HUGO(ヒューゴの不思議な発明)』でも紹介されている。

 初期のストーリー映画で代表的なものは、エドウィン・ポーターの『The Great Train Robbery(大列車強盗)』。盗賊団が列車を襲撃するという、1903年製作の西部劇で、映画にストーリーを持たせただけでなく、新しい撮影テクニックがたくさん使われたことでも知られている。例えば、同じフィルムに2回露出して、別々に写した被写体を1つの画面に重ねるタブルエクスポージャー技法や、同時期に別の場所で起こっている出来事を交互に映すクロスカッティングなどが用いられた。また、スタジオだけでなく、他の場所で役者が演じ、撮影するというロケーションシューティングも初めて行われた。

 また、この映画には所々カラーが使われたが、これはかなり画期的な取り組みだった。カラーといってもフィルムの1カットごとに色を塗ったものを、映写機で投影するというスタイルで、今のカラーフィルムとはまったく違うものであるが、製作者のカラー映像に対する憧れが伺える。ちなみに、代表的な初期のフルカラーフィルム映画といえば、1939年の『The Wizard of Oz(オズの魔法使い)』。『大列車強盗』から30年以上も後に完成している。

無声から有声へ… そして脚本家の誕生

無声から有声へ… そして脚本家の誕生

映画初期のころの「イントロランス」のセットを再現したハリウッド&ハイランドセンター

 映画の撮影技術やストーリーは、人々の好奇心と相まって徐々に進化してきたものの、この時代にはまだ脚本家の存在はなかった。チャップリンやバスター・キートンに代表されるような、映像だけで見せる技法だったため、シナリオを考案するシナリストがいるだけだった。しかしそれは、監督や役者の中で、例えばチャップリン的な面白いシチュエーションを考える人や、「映画の父」と呼ばれるD・W・グリフィス監督のような人が、シナリオ制作も兼任していたというものであり、特別にシナリストと呼ばれる人たちがいたわけではなかった。

 しかし1927年、サイレント(無声映画)からトーキー(有声映画)の時代に突入し、映画に “音” という要素が加わると、そこに「セリフ」が必要になってきた。そして初めて脚本家というものが誕生する。当時、ブロードウェイの劇作家や小説家、新聞記者に至るまで、あらゆる書き手と呼ばれる人たちが、新天地 “夢のハリウッド” を目指してやってきた。1930年代には、後に小説家として大成するF・スコット・フィッツジェラルド、ウィリアム・フォークナー、トーマス・マンなどがハリウッド映画の脚本を手がけている。1927年に『Underworld(暗黒街)』で記念すべき第1回のアカデミー賞脚本賞を受賞したベン・ヘクトも、脚本を手がける前はシカゴで新聞記者をしていた。劇や小説、雑誌記事には、物語の始まりから終わりまでの起承転結のような流れがあり、そのノウハウを映画に持ち込んだものがハリウッド映画の脚本の原点であると言える。


文 = 芦刈いづみ、写真 = Tak S. Itomi

映画の始まりとハリウッド 〜その2〜へ

映画の始まりとハリウッド 〜その3〜へ


2013年12月号掲載