盆踊りしか知らなかった少年時代

盆踊りしか知らなかった少年時代
Photo by Michael Higgins

 東京都港区生まれの7人兄弟(男5人、女2人)の下から2番目という大家族の中で育ちました。終戦時は小学校1年生だったので、食べる物がなかったことをよく覚えています。高輪高等学校を卒業後、事務の仕事を始めたのですが嫌で嫌でしょうがなくて。これからどうしようかと思っていた時に、すぐ上の兄が「身体を動かすのが好きだから、踊りでもやってみろ」とすすめてくれたんです。そこで1957年に東宝芸能学校に入学したのが19歳の頃です。当時は映画と言えば黒沢明、三船敏郎の時代ですよ。東宝芸能学校には1年ほど在籍して、有楽町にあった日本劇場に入団しました。その頃、日劇は芸能人の登竜門みたいなもので、立派な芸人たちが歌ったり踊ったりしていました。ここは東宝が経営していて、東宝映画の上映と実演が主な事業内容だったんです。実演の方では日劇ダンシングチーム(NDT)という舞踊集団のレヴューと人気歌手のショーが見所で、僕は踊りの部門に所属していました。「日劇三大おどり」といって、毎年春、夏、秋に各2カ月ほどの公演があるんですが、それがものすごく人気だったんです。コスチュームを着て、化粧をして舞台に立っていました。踊りの楽しさに目覚めたのはその頃ですね。それまでは盆踊りの時くらいしか踊った記憶はないのですから…(笑)。だから自分に踊りの才能があるなんて思いもよりませんでした。

 1963年に東京宝塚劇場で菊田一夫さんが脚本と演出を担当した『ブロードウェイから来た13人の踊り子』というミュージカルが上演されて、フランキー堺さんや越路吹雪さん、早苗光子さん、浜木綿子さんらが出演していました。その時、ニューヨークのブロードウェイから13人のプロダンサーを呼んで出演してもらっていたんです。その当時はミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』が大ヒットして、映画化された後で、ジャズダンスがとても流行っていました。映画版『ウエスト・サイド・ストーリー』にも出演しているハイミー・ロジャースというダンサーがその13人のリーダーとして来日していたのです。そこで活気みなぎる本場仕込みの踊りを見て、翌年の夏には彼を追っかけるように渡米しました。日劇の舞台で第一線で活躍していたとはいえ、日本で学ぶものはアメリカからの輸入でしたから。ダンスの本場ニューヨークに渡って本物を学びたいという気持ちが芽生えた途端、居ても立っても居られなくなったのです。

船でアメリカへ渡りバスで大陸を横断

船でアメリカへ渡りバスで大陸を横断

(左)26歳の時、ニューヨークのスタジオにて練習時のショット。しなやかなジャンプを披露

(右)1960年代にニューヨークの「Radio City Music Hall」でトップダンサーとして舞台に立った


 当時は1ドル360円の時代。もちろん飛行機なんて高過ぎて乗れません。アメリカから荷物を運んできたカーゴ船が戻る時に何人か一緒に乗せて帰ってくれるという話を聞き付けて、日劇時代の友人で同じダンサー仲間の栗田文隆くんと一緒に船でアメリカを目指すことにしました。横浜港から乗り込んだのですが、荷物を下ろした後だから船内はガラーンとしていて(笑)。2週間くらい船に揺られてサンペドロ港に着いたのが初めてのアメリカでした。船賃は350〜400ドルくらいだったかな。その時はもちろん英語なんて話せないんだけど、タクシーを捕まえて「リトルトーキョー」ってカタコトで言ったら、ちゃんと連れて行ってくれたんだよ(笑)。その昔、リトルトーキョーにニューヨークというホテルがあって、そこに宿泊して3日目にはグレイハウンド・バスで目的地のニューヨークを目指しました。

 英語は話せないし、知っている単語が「ハムエッグ」くらいだから、移動する間はずっとハムエッグ・サンドイッチばっかり食べてましたね。途中でテキサス辺りを通った時に、立ち寄った休憩所のカウンターに“Beer”というサインがあって、それくらいは読めたから「これください」ってオーダーしたら真っ黒な液体が出てきちゃった。「アメリカのビールは変わってるなぁ」と思ってぐいっと一口飲んだらこれが甘くて甘くて。ビックリして思わず噴き出してしまいました。あの頃からルートビアはあったんですよね。バスの中では襲われたら恐いから、ずっと一番後ろの席に座っていました。これだったら後ろからいきなりやられることはないだろうと思ってね(笑)。そしたらなんか頭の後ろでガンガンって音が鳴り止まなくってうるさいんだよ。ニューヨークに着いてからもしばらく頭の中でガンガンって音がこだましてて…。後で気付いたんだけど、バスのエンジンが騒音だったんだよね(苦笑)。

 ニューヨークに着いたら、日劇関係の友人にお世話をしてもらってアメリカ人のお宅に滞在させてもらいました。そこで部屋を借りてレッスン通いの毎日。日劇時代に可愛がってもらった中野ブラザーズ(中野啓介と中野章三の兄弟タップダンス・ユニット)から「ニューヨークに行ったらルイジ・ファチュートという人を訪ねろ」というアドバイスをもらっていたんです。ルイジはジャズダンスというジャンルを作り上げたパイオニア的存在の人で、非常に有名なダンサーでした。

 彼が踊っているところを覗きに行ったら、スタジオの中でたくさんの人が踊っているのに、自然と彼に目が吸い込まれていきました。まるでスポットライトが当たっているかのように彼だけが光って見えるんですよ。その時、「あ、この人が僕の先生になる人だ」ってピンときて。他の先生の踊りを見ても何も感じなかったのに不思議なものですよね。その後、彼に師事して〝ジャパニーズ・ナンバーワン・サン〟とまで呼ばれるほど可愛がってもらえるようになりました。彼は若い頃に交通事故に遭って一度は半身不随になったのですが、ダンスを使った独自のリハビリストレッチで見事復帰を果たしているのです。それを間近で見てからはウォームアップを重点的にするようになりましたね。

 ニューヨーク時代はブロードウェイの舞台にも立ちました。『Education of Hyman Kaplan』という移民の話をミュージカル仕立てにした舞台があって、そこでソロを演じました。そのオープニング第2幕が始まった途端に周りがザワザワし始めて、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺されたって言うではないですか。もう舞台どころじゃなくなって、即中止ですよ。ニューヨーク市長も観に来ていたのですが、彼も周りの人を引き連れて慌てて引き上げていましたね。忘れもしない1968年4月4日のことでした。

 当時、ブロードウェイで数々のオーディションを受けましたが、オリエンタルの役柄はとても限られたものばかり。技術面では他の人に引けを取ることなく最終面接には残るのですが、最後に「ハマ、残念ながらあなたの役はない」と言われて落とされてばかり。とにかくダンスで一流になることしか頭にないから、「そうか、オリエンタルの役がないんだったら仕方ないな」と思っても誰かに対して怒ったり憎んだりはした記憶はありませんが、それでもやはり悔しかったですね。渡米当初に「10年間は絶対に日本に帰らない。その間に何かしらの答えを出してやろう」と誓っていたので、それはもう無我夢中の10年でした。

拠点をLAに自身のスタジオをオープン

拠点をLAに自身のスタジオをオープン

(左)1998年、恩師でありメンターのルイジ(左)と共に。当時グレンデールにあった「Hama Dance Center」にて

(右)ジャズダンスのパイオニアの1人、故ダニエル・ナグリン氏(左)の功績を称える表彰式に出席した時の1枚


 ダンサーとして活動する傍ら、ルイジのスタジオでクラスを担当していたのですが、そのうちに独立心も芽生えてきました。彼に相談したところ、かつて彼自身も教えていたLAの「Falcon Studio」を紹介してくれて、私がそのスタジオで指導できるようにセットアップまでしてくれました。そこで1971年に拠点をLAに移しました。LAではTVの仕事も増え、バラエティ番組に出演したり、スターたちと踊ることも多くなりました。選り好みしている余裕も暇もなかったので、お金を支払ってくれる仕事はイヤとは言わずに何でも引き受けました。

 34歳の時に6歳下のスパニッシュダンサーと恋をして、娘を2人授かりました。TVの仕事といっても、1〜2週間で終ってしまうものが多くて、そんなに何年も続くものじゃない。1つの番組に出演したら次のオーディションを受けに行って合格したらその番組に出演…の繰り返し。30〜40代の頃はとにかくダンスと子育てに精一杯でしたね。その頃から「50歳を過ぎたら自分のスタジオを持つんだ」という目標があったので、1991年、51歳の時にグレンデールに場所を借りて「Hama Dance Center」をオープンしました。99年から現在スタジオがあるスタジオ・シティに移ってきたのですが、ラッキーなことに僕の生徒が「ハマがやり続ける限りここにいていいよ」って今の場所を買ってくれたんです。それだけ僕の踊り、そして僕という人間に価値を見出してくれたのがとても嬉しかったですね。

枯れない情熱が周りを魅了する

枯れない情熱が周りを魅了する

自身のスタジオにて。75歳とは思えない軽快な動きで指導にあたる。浜垣氏からはテクニックだけでなく、踊りに対する情熱、姿勢も学ぶことができるととても人気

 ダンスが好きな人はたくさんいると思いますが、それで食べていける人なんてほんの一握り。特にエンターテインメントの分野って水物ですから、僕みたいに20年以上スタジオを続けられているのは本当にラッキーだと思います。どの分野でもそうだと思いますが、プロになるためには、まずは先天的な才能が必要ですよね。でも、どんなに才能がある人でもやっぱり努力は不可欠。だけど、その努力が実は一番大変なこと。どんな事も近道はなくて、コツコツと地道にやっていくしかないんだけど、何回やれば絶対に上達するなんていう保証はどこにもありませんよね。自分を信じて突き進むしかないんです。

 見えないゴールを目指して進んでいくためにも、情熱と忍耐力が欠かせません。僕の場合は幸いなことに、踊りに対する枯れない愛情がありました。もちろん壁にぶつかったことは幾度となくあって、その度にくじけそうになりました。そんな時は情熱でカバーするしかなくって、でも情熱って形があるわけじゃないでしょ?お金で買えるものでもないから自分自身で生み出すしかなかったんだよね。そのためにはインテリジェンスも必要になってきます。今でもモチベーションを保ち続けるために、自ら目標を立て、それに向かってひたすら前進あるのみです。

 今年75歳になりましたが、今も現役で生徒たちの指導にあたっています。今後の目標はいつまでも動けるような身体作りをすることと、常に真っ新な気持ちで探究心を忘れないことですね。自分のスタジオで私の愛するダンスアートを多くの人々と分かち合えるのは非常に素晴らしいことです。僕が踊りに対する変わらぬ情熱を持ち続けることで、それが周りにも伝わって、彼らを魅了しているんじゃないかな。人生には色んな幸せの形があると思いますが、歳をとっても自分の好きなことをし続けることが、実は一番幸せなことじゃないかなってしみじみ思うんです。


ダンサー、「Hama Dance Center」代表 浜垣威氏

Takeshi "HAMA" Hamagaki■1938年東京都生まれ。私立高輪中学校・高等学校卒業後、1957年に東宝芸能学校入学。翌58年に日本劇場へ入団し、日劇ダンシングチーム(NDT)に約5年間所属する。1964年にニューヨークに渡り、ジャズダンスのパイオニア、ルイジ・ファチュート氏に師事。ブロードウェイの舞台に立ち、『Education of Hyman Kaplan』ではソロを演じる。1971年に拠点をLAに移し、ダンサーとして活躍する傍ら「Falcon Studio」でダンスの指導にあたる。1991年にグレンデールに「Hama Dance Center」を設立。1999年にスタジオシティに移転。現在も現役で生徒を指導している。
Hama Dance Centerウェブサイト: www.hamadance.com


2014年07月号掲載