憎しみを氷解した聖書との出会い

憎しみを氷解した聖書との出会い

 合同メソジスト教会の牧師の職を退いてから、今年で18年目になります。近年はボランティアを中心に活動することが多く、昨年の6月には、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市に2週間滞在しました。大したことはできませんでしたが、仮設住宅にお伺いして被災者の方々とお話しをしたり、炊き出しや行事の手伝いをしておりました。

 私は中学生の時に、故郷の広島で被爆した経験があるので、東京電力福島第一原子力発電所の事故を聞いて愕然としました。被爆者の1人として、どれだけ多くの人が今もなお苦しんでいるかを知っている。核の恐ろしさが骨の髄まで染みているからこそ、福島第一原発の問題における日本の生ぬるい対応に驚きを隠せなかったんです。世界で唯一の被爆国としての経験がまったく活かされていない。ふがいない政府に対する怒り、疑問、不安…でもこれは裏を返せば、核問題勃発直後に何もできなかった私の自責の念を投影しているのかもしれません。

 1945年8月6日。中学生だった私は、奇跡的に原爆から逃れることができたものの、県病院に勤めていた姉の美代子を探して、投下から3日目に広島市内に入り被爆しました。見渡す限り続く瓦礫と遺体の山の中、姉を探す傍ら、重症の被爆患者をトラックで郊外の病院に運ぶ作業の手伝いをしていたんです。ほどなく病院の焼け跡から姉の骨が見つかり、藤本家代々の墓地の片隅に埋葬。それから間もなく日本は終戦を迎えました。

 当時私は14歳。歴史を塗り替えた日本の敗戦、そして史上初の原爆投下。最愛の姉を失い、被爆者となった私には、復讐の気持ちしかありませんでした。罪のないたくさんの市民を殺戮したアメリカを心の底から憎んでいたんです。その気持ちが氷解するきっかけとなったのはある出会いでした。終戦後、9月から授業が再開され、旧高射砲兵舎を改造した臨時校舎で、私は5人の帰米2世のクラスメイトと弁当を食べるようになり、彼らの話からアメリカの文化や考え方を知ることができたんです。私にとってアメリカ人は憎い敵であることは変わらなかったけれど、親しい友人を通してみる彼らは、私たち日本人と同じ生身の人間でした。また高校に進学し、課外活動で英語のバイブルクラスを取った時、聖書に載っていたある言葉に人生観が変わるほどの衝撃を受けたんです。「父よ、彼らを赦したまえ、彼らはその為すところを知らざればなり(ルカ福音書23章34節)」。どうしてキリストは自分を十字架にはりつけた者たちのために祈ることができるのか。私にはまったく理解できませんでした。疑問は興味に変わり、それからむさぼるように聖書を読むようになりました。

 1950年、私は高校卒業と同時に、広島にある原爆傷害調査委員会(ABCC -Atomic Bomb Casualty Commission)に勤務。そして同年12月16日、日本キリスト教団広島主城教会で洗礼を受けることになったのです。

牧会心理学を修了アメリカでの伝道生活

牧会心理学を修了アメリカでの伝道生活

(左)1959年3月28日、4年間の婚約期間を経て、神戸御影ユースセンターで、須藤スミヲさんと結婚

(右)1965年、ボストン大学神学部への留学を薦めてくれたジョンソン博士とMA州で再会


 5年後、私は思うところあってABCCを退職し、24歳で関西学院大学神学部に入学しました。奨学金で参加した『高知国際ワークキャンプ』で須藤スミヲと出会い、59年に結婚。大学院在学中の2年間は別居生活を強いられましたが、卒業後は大阪の池田市で一緒に暮らし始めました。カウンセリングについて興味を持つようになったのは、池田五月山教会で伝道師として働き始めた頃です。団地の中に建つ教会には、独りで生きていかなければならない不安にさいなまれたり、生活様式に馴染めずにノイローゼになった人も来ていました。その時力になってくれたのが、関西学院大学客員教授として教鞭を執っていたポール・E・ジョンソン博士でした。ジョンソン博士は、ボストン大学の名誉教授で、牧会カウンセリングの第一人者でもあったのです。彼は被爆問題や、私が鬱々と抱えるアメリカへの感情も受け止めてくれた非常に心の広い方でした。カウンセリングを学びたいのなら、ぜひボストンにおいでと言ってくれたのに発奮し、私は奨学金に応募してボストン大学神学部に留学することになりました。終戦から15年。29歳でついにアメリカに渡ることになったのです。

 ボストン大学では牧会心理学を専攻し、2年間で神学修士を取得しました。引き続きスイスのジュネーブ大学ボセイ・エキュメニカル研究所で学びたいと思っていたのですが、先立つものがない。そんな折、うまい具合に国際教育交流会の仕事が舞い込んできたんです。各都道府県から選出された30数名の小・中公立学校の先生たちが、視察・研修のためにアメリカに3カ月ほど滞在する間、通訳として働く仕事でした。交通費と食費付きで1日20ドルが支給されると聞いてびっくり。当時現地の保険会社で働いていた妻のスミヲも、仕事を辞めて応募。稼いだお金を元に妻と共にスイスに渡航し、5カ月もの間、念願の研究所で学ぶことができたのです。

 日本に帰国したのは翌年のこと。山梨英和短大の宗教主任を経て、長野県塩尻アイオナ教会の牧師になりました。1972年に長男・恵一が誕生。そしてその2年後に長女・真子が生まれたのですが、日本キリスト教団の世界宣教協力委員として、ニューヨーク州北部に一家4人で滞在し、巡回宣教師を務めることになったのです。

 1年後、無事に任務を終えて帰国。しかし運命とは不思議なもので、息つく暇もなく、ニューヨーク市内や近郊の日本人駐在員やその家族を対象にした伝道のため、再渡米することになりました。行先は同じニューヨーク州でも前回のような田舎とはうって変わり、摩天楼がそびえたつマンハッタン地区。当時、日本企業のアメリカ進出に伴い、日本人駐在員のストレスは尋常ではありませんでした。またその家族も異国での生活に慣れず苦しんでいることが多かったのです。私は『日本人特別牧会(SMJ- Special Ministry to Japanese)』のディレクターとして、各地の家庭集会で聖書の勉強会やカウンセリングなどを行っていました。ニューヨークSMJは、やがてニュージャージー州フォートリーなど10カ所に拡大し、私が3年の任期を終えて帰国した後も、次々に良き後継者を得て今日まで続いています。

家族と共に歩んだ“ガザに下る道”

家族と共に歩んだ“ガザに下る道”

(左)1966年、日本の公立小・中学校教諭30余名が国際教育研修のために訪米。妻スミヲさんと二人三脚で通訳を務めた

(右)1975年、一家4人でニューヨーク州を巡回伝道。長男・恵一は3歳。長女・真子は生後8カ月だった


 日本に帰ってから、広島女学院中・高部の宗教主任を務めていましたが、1984年、家族揃って三度渡米。カリフォルニア州ガーデナ市で合同メソジスト教会の日本語部牧師となり、86年に永住権を取得しました。

 1964年の初渡米以来、20年以上にわたって日本とアメリカの間を行ったり来たり。妻をはじめ、特に子供たちには大変な思いをさせました。広島からカリフォルニア州に引っ越す話が出た時、長男は小学6年生。ようやく生活も落ち着き、学校では野球部に入って、友達もたくさんいたのに、またもや渡米することになったのですから、さぞかし辛かったでしょう。おまけに親しい友人から「行くならどこでも行っちまえ」と心にもないことを言われ大ショック。ある朝、突然姿をくらませてしまったんです。もう学校中大騒ぎで、担任や教頭先生まで捜索に加わる事態となりました。夕方近くになって帰ってきた長男を問いただすと、丘に登り一人でずっと瀬戸内海を眺めていたそうです。これを聞いて本当に心が痛かったですね。4年半後に、ガーデナ市からハワイ州オアフ島に任命された時も、長男は大分抵抗しましたが、ゆったりしたホノルルは鷹揚な彼に合っていたようです。アルバイトをしながら大学に行き、現在は会社員をしています。片や長女は長男とは正反対の性格で、いわゆる“住めば都”タイプ。サーフィン好きが高じて、サーフィンを使った宣教活動に興味を持ち、日本で『クリスチャン・サーファー・ジャパン』を立ち上げて、日本に10年間滞在。2012年からはオーストラリアで暮らしています。

 振り返ってみれば、私が辿ってきた道は必然でした。自分でビジョンを持って進むというよりは、誰かに背中を押されたり、状況や環境で自然とそう導かれている。そしてそれを柔軟に受け入れてきた自分がいる。2001年に『ガザに下る道(Way Down to GAZA)』を上梓しましたが、これは70歳の誕生日に執筆を開始した自伝です。7年の歳月をかけて完成させ、日本語版を300冊、翌年には英語版500冊を出版しました。ガザとは、都エルサレムに上ってサマリ伝道成功の賞賛を受けるよりも、紛争の絶えない異教の町ガザに下って行け、との聖霊のみ告げに従って弟子のフィリポが出かけた土地。「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け(使徒言行録第8章26節)」。不本意ながらガザに向い、途中でエチピアの高官に出会ったフィリポですが、実はここからキリスト教の世界宣教の第一歩が始まるのです。14歳で被爆し、長い間アメリカを恨んでいた私ですが、閉ざされた世界から一歩踏み出したことで、人生が大きく変わった。まさに“ガザに下る道”を通ってきたわけです。

7月で83歳生かされていることに感謝

7月で83歳生かされていることに感謝

(左)2009年オアフ島で、長男および長女の家族と共に『金婚式』を祝った

(右)2014年3月28日、オーストラリアの長女宅で結婚55周年を祝う。出会いから60年を迎え、ますます仲睦まじいお2人


 実は今年初めに転倒し、緊急入院後、22カ月の在宅リハビリを経験しました。82歳でのリハビリは正直きつい。苦労はないけれど痛みがある。痛みとどう共存していくか。自分との闘いですよ。甘やかさず、怠けず、痛くても、毎日1マイルは歩くようにしているし、週に3回は朝40分の体操も欠かしません。私は生きなければならないからです。

 広島の原爆でたくさんの人が犠牲になり、私も被爆したのに、なぜ“自分は生かされているのか”。そんなことを考えるようになったのは、ABCCでIBM統計機のジュニアオペレーターを務めている時でした。その仕事に就いて2年ぐらい経った頃でしょうか。機械から出てくる統計表を眺めていた時、ふとある数字に目が釘付けになったんです。その統計は、市内の爆心地からの距離と年齢別による白血病の発生率を示したもので、そこに「被爆時の年齢:14歳、爆心地からの距離:2キロメートル半」とあったのです。それを見た瞬間「これは自分だ」と思いました。もちろん別人なのですが、同じ状況で被爆した私にはどうしても他人事とは思えなかった。何で俺は生きてるんだ。きっと生かされてるんだ。ならば自分のためじゃなくて、誰かのために生きたい―。ABCCを辞めたのは、大学に進学してもっと人の役に立ちたいと思ったから。生かされていると思えば、どんな苦労も痛みも大したことではないんです。

 若い世代の日本人に伝えたいこと。それはどこにいても日本人の良さを忘れないでいてほしい。東日本大震災の被災地では、今も多くの人がボランティア活動をしています。助け合う心―つまりボランティア精神というのは、日本人は元から持っている美徳なんです。こうした日本人の良さを受け継いで、どうか後進に伝えてほしい。“ボランティア”には自発的な意味合いがありますが、往々にして周囲の状況や他人から、“たすき(バトン)”を渡されることが多いんです。“たすき”を受け取る機会がある時、それは自分が試されている、そして自分のために用意された祝福の道であると思ってください。


元合同メソジスト教会牧師、被爆体験者 藤本治祥氏

Haruyoshi Fujimoto■1931年、広島県広島市で誕生。1945年8月、市内で被爆。高校卒業後、広島ABCCに就職。洗礼を受けクリスチャンとなる。24歳で関西学院大学に進学。1959年、須藤スミヲと結婚。大学院修了後、神学部助手・池田五月山教会伝道師に就任。1964年、ボストン大学留学。卒業後、ジュネーブ大学に短期留学。帰国後、山梨英和短大宗教主任などを歴任し、二度のNY州赴任を経験。その後広島女学院宗教主任を経て、1984年北ガーデナ合同メソジスト教会日本語部牧師に。1986年米国永住権取得。ホノルルWesley合同メソジスト教会を最後に、1996年に引退。77歳で自伝『ガザに下る道』を出版。翻訳書多数


2014年08月号掲載