自称、近江商人

自称、近江商人
Photo by Junya Okada

 米国公認会計士の資格を取って、もうすぐ半世紀になります。1967年のことで、同資格を取ったのは日本人では私が第1号でした。竹中の一族はもともと滋賀県出身で、私も国を離れて商売をしていますから、自称、近江商人です。

 小さい頃は大人しく、田舎によくいる普通の子供だったと思います。平凡な人生が大きく変わったのが、中学生の時。きっかけは父の渡米でした。父はもともと弁の立つ人で、養鶏場や果樹園を経営しつつ、愛知県豊橋市の市議会議員をしていたんです。地元を良くしたいと頑張ったようなのですが、正義感が強過ぎて、清濁併せ呑むような政治の世界に途中で嫌気が差したんですね。議員を辞職し、アメリカにいた友人を頼って渡米してしまったのです。10日以上かけて船で太平洋を渡るような時代のことです。私はそのうち父が帰ってくるだろうと思っていたのですが、期待に反して、皆でアメリカに来い、という連絡が来た。母は海外に出たこともなく英語も話せなかったので、子供4人を連れての渡米は大変な苦労だったようです。

 日本の田舎で純粋に育った私にとっても、学校に入学して受けたカルチャーショックは、それは大きなものでした。今でも覚えているのが、月1回のダンスの時間。女の子の手も握ったことのない当時の私には、それは耐え難い試練でした。アメリカ人は中学生であっても、体が大きく口紅も塗っていたりして、奥手な日本人とは大違いなんですね。当時の体験がすっかりトラウマになり、お蔭様で(笑)今でもダンスが大嫌いです。

 カルチャーショックはもちろん、英語が話せないというのも、生真面目だった私には大きな負担でした。今のように、英語が母国語でない子供に対する学校側の理解もなく、場所もユタ州だったので、周囲は日本人を見たことがないようなアメリカ人ばかり。マイノリティーであること、英語が話せないこと、すべてが大きなハンディキャップに感じられました。ただ、そこで負けて諦めるような子供でもなかった。今考えると、ハーバード大学などで教えているSWOT分析の思考に近いと思うのですが、追い詰められた状況で必死になって考えだした方法が、自分の強みを見つけ出すことだったんです。自己分析の結果、数学の能力は他の生徒より長けていることを自覚したんです。とにかく数学の成績だけはズバ抜けて良く、そろばんも1級を取っていましたから、暗算も強かった。自分はこの「数字」で勝負していくしかチャンスがないと思い、数学だけは徹底的に勉強し、高校でも常に良い成績を取り続けました。その甲斐あって地元のユタ大学に進学し、卒業時には会計学部を主席で卒業するくらい、数字に強くなっていました。

Up or out systemに鍛えられ

Up or out systemに鍛えられ

(左)剣道に夢中だった少年時代

(右上)1957年に渡米。高校には自分の愛車で通学した

(右下)1961年高校卒業後はユタ州立大学に進学し、会計学を学んだ


 主席で卒業という結果を出し、満足のいく大学生活だったものの、次に立ちはだかったのが就職の壁。悲しいかな、当時はまだ人種差別が歴然と存在していたんですね。日本人だと面接もしてくれないような会社もありました。それでも大手の電気メーカーからオファーはもらったのですが、お世話になっていた教授に、会計学の修士号があるのに、公認会計士の資格を取って会計事務所に勤めないなんて、もったいないと諭されたんです。オファーを断るべきか悩んでいた時、以前学校に会社説明に来ていたKPMGの方が私のことを覚えていてくれて、海外リクルーティングのヘッドの方にソルトレイクの空港で会えることになりました。当時のKPMGは海外の顧客が増えてきていて、外国語が話せる点を多少プラスに見てくれたんですね。さらに運も味方してくれ、たまたまロサンゼルスの採用枠が1人だけ空いている、ということで、オファーを貰うことができました。

 当時の会計士の世界は「up or out system」というしきたりがあり、常に実力を付けて会社の成長に貢献して出世していくかクビになるか、どちらかの道しかない厳しい世界。会計事務所は税務申告の後、毎年4月に各社員のチャージャビリティーが明確に出ますから、ごまかしようがないわけです。新人でも容赦ない上、さらにここでも人種の壁に悩まされました。アジア人ということで、大手企業の監査には呼んでもらえず、声が掛かるのは法律上、人種の制限が禁止されているパブリックセクターの案件だけ。ここは決算が6月で、それが終わると仕事がほとんどなくなってしまうため、チャージャビリティーが急激に下がってしまうのです。危機感を感じていた時に頼まれたのが、税務部での申告書の清書でした。アメリカ人の社員はミミズがはったような字を書く人が多かったのですが、私は親からの教育もあり、アルファベットも数字も、素早く丁寧に書くことができたんです。「ヒューマン・タイプライター」というあだ名が社内で広がり、清書の依頼がひっきりなしに続くようになりました。決算の時期が終わっても私は清書を続けていてチャージャビリティーが高かったため、一番面白くない仕事ではありましたが、クビになることはなかったんですね。

 下積み時代からの転機が来たのが、1960年代後半、日系企業のLA進出が盛んになった時期でした。当時の日系企業は、財務、経理の担当者に英語が話せる人が少なく、日本語が使える私は文字通り引っ張りだこになりました。母国語が日本語であることが突然、強力なアドバンテージに変わったわけです。急激に顧客が増え、チャージャビリティーもダントツでトップ。明白な数字が出れば人種の壁もなくなりました。通常、パートナーになるには13年はかかるのですが、私は8年で昇格しました。

バカになる時期の必要性

バカになる時期の必要性

1989年にKPMGを退社し、現在の会社を設立。46歳の時だった

 若い方にもよくお話しさせていただくのですが、私は成功するためには皆、ある時期バカになる、無心になることが必要だと思っています。どんな職業でも同じ。例えば、板前さんなら修業中、ひたすら皿洗いや野菜の皮むきをする下積みの時期がありますよね。そこで賢さを出して、何でこんなことをしているのか、などと無駄なことを考えたら、その時期を乗り切れない。与えられたことを無心でこなす時期というのは、基礎知識と原則を吸収するために誰しも絶対に必要なのです。私の場合、入社後数年間がその時期でした。お役所の窓ひとつない金庫でひたすら申告書の清書をしていた時期は精神的にも鍛えられましたし、何よりそれが自分の中の最も苦しい時代として、今でもすべての比較対象になるわけです。仕事で大変なことがあっても、あの、金庫に籠っていた時代に比べれば大したことない、とポジティブに考えられる。苦しい時代、辛い時代を乗り越えた人が強いのは、自分の中に現時点との比較対象があって、常に「それに比べればまだ頑張れる」と思えるからではないか、私はそう思っています。

本田宗一郎さんとの出会い

本田宗一郎さんとの出会い

(左)5期にわたってLA市長を務めたトム・ブラッドリー氏との記念写真。選挙に当選した際、「勝」と刺繍を入れた丸八真綿の布団をプレゼントした

(右)オフィスに並ぶ、顧客企業からの感謝状(下)、著書や作家による自叙伝も出版されている(上)

Photo by Junya Okada

 パートナーになってノリに乗っていた時期に、その後の生き方を変えてくれた故本田宗一郎さんとの出会いがありました。出張でロサンゼルスにいらしていた本田さんと、2人きりでお話しするチャンスに恵まれたのです。心に染み入るような深いお話しをたくさん聞きましたが、中でも「創業者、パイオニアは後に続く人を育てるために、早く辞めなければならないよ」と言われたことが心に残りました。確かにその通りなんですよね。私も当時、どんどん若い会計士を育てていたのですが、私が会社にいる限り、彼らは常に私の指示と判断を仰いできて独り立ちができない。思い悩んだ末、本田さんとの出会いから6カ月で会社を辞め、恩を仇で返さないよう、誰も引き抜かず、顧客も引っ張らず、1989年に1人で今の会社を立ち上げました。

人生は勉強道場

人生は勉強道場

(左)アナハイム大学から日米の親交を深めた功績を称えられ、元大関の小錦八十吉氏と共に表彰された

(右)お孫さん(真ん中)が社交界デビューした際の一枚。家族を愛する祖父としての表情が浮かぶ


 独立後、数年も経たないうちにバブル崩壊が起こりました。かなり痛手は蒙りましたが、もともとメガバンクなどに頼らない、小規模でも確実なM&Aを手掛けていたので、あの大恐慌を生き延びることができました。リアクティブな仕事をしていると、時代の流れや経済状況に、ダイレクトに影響を受けるんですよね。あの当時も、銀行や証券会社のビッグマネーに頼ったリアクティブな仕事をしていた企業は、根絶やしになってしまいました。やはり、自分から動いて判断するプロアクティブな仕事をすることが、どんな状況でもビジネスを成功させる秘訣なんです。

 自分の人生を振り返るとしみじみ、人生というのは勉強道場だなと思いますね。一生が学びの場。いくつになっても謙虚な姿勢を忘れず、学び続けていきたいですね。そして自分が周囲から学ばせてもらった分は、若いビジネスマンを支援することで世間にお返ししていきたいと思っています。

 長い海外生活を支える杖となったのは、やはり母国への思い。海外にいるからこそできる、日本経済再生への支援を考えたいという思いが強くあります。幸い自分が立ち上げた会社ですから、収入だけの目的ではなく、日本企業のビジネスのグローバル化を海外から手助けしていきたい。バブルが崩壊し、日本経済が長い低迷期を経た今、やっとそれができる流れが確立されつつあると感じています。活力に溢れた72歳、まだまだこれからが楽しみです。

~信条~

感謝、謙虚、工夫の3K

感謝の心で物事をポジティブに捉え、謙虚な心で常に学び続ける。工夫があれば、どんなPCでも敵わない脳を少しでも多く使える。3Kがあれば、すべて上手く行く、私はそう思っています。


Takenaka Partners LLC President & CEO 竹中征夫氏

Yukuo Takenaka■1942年愛知県豊橋市生まれ。15歳の時、家族でユタ州に転居。高校卒業後、ユタ州立大学に進学。会計学を専攻し、主席で卒業。1965年大手会計事務所KPMGに就職後、1967年に日本人で初めて米国公認会計士(CPA)の資格を取得。1973年にはKPMG米国本社初の日本人パートナーに就任し、1981年に海外進出日本企業担当「ジャパン・プラクティス」統括責任者に就任する。1989年に独立し、「Takenaka Parters LLC」を設立。世界を飛び回りながら、数多くのM&Aなどを手掛け、日本企業の海外進出をサポートしている

会社概要

社名: Takenaka Partners LLC
本社所在地: 801 S. Figueroa St.,Suite 620, Los Angeles, CA 90017
事業内容: ●クロスボーダーのM&A、インベストメント・バンキング
      ●戦略的パートナーシップ、グローバル企業戦略コンサルティング
      ●リストラクチャリング・事業再生
資本金: 50万ドル
従業員数: 米国20名、日本10名
創立: 1989年
Web: www.takenakapartners.com


取材・文 = 中村洋子

2014年09月号掲載