長崎から東京へ。卒論は「無茶」

長崎から東京へ。卒論は「無茶」
Photo by Gene Shibuya

 長崎市で生まれ、お茶に囲まれて育ったため、幼い頃からお茶は日常でした。鹿児島で祖父がお茶を作り、父がセールスをして長崎で小売店を始めました。僕は幼少時から配達のほか、茶詰めや接客も手伝ったので、小売業とお茶に関する知識は自然と身に付いていましたが、男三人兄弟の真ん中だったし、家業を継ぐつもりはまったくありませんでした。高校卒業まで長崎で、大学は慶応の商学部に入学。大学3年生の時に、さらに日本の外に出たくなって、1年間テキサスに留学しました。

 留学中、マーケティングの授業で「アメリカでお茶を売ったらどうなるか」というケーススタディを自作し、帰国後に卒業論文でもそれをベースにしました。卒論の題名は「無茶」。「無茶」という言葉は、元々「しきたりを壊す」という語源説もあるという話を逆手に取り、「無茶なことをしないとお茶はなくなります」という論文を書き上げました。過去を踏襲するだけでなく、ブレークスルーする革新性がないと存続も成長もない。僕が言う「無茶」とは、アメリカ人のライフスタイルにおいて、お茶が日常になること。例えば、「カリフォルニアロールなんて寿司じゃないよ」って日本では言っていたけど、世界に広まったことで、逆に日本にも浸透しましたよね。寿司と同様、海外で新しいお茶を作って、飲み方、使い方を日本に逆輸入するようなことをやりたいなと思っていました。

トップ営業マンから脱サラし、渡米

トップ営業マンから脱サラし、渡米

(左)1986年、家族を日本から呼び、LAから車でテキサスへ(アリゾナにて)

(右)1987年、初NY、販売先開拓へ


 大学卒業後は、不動産会社に就職しました。将来世界で成功したいという思いから、独立して会社を創業した社長に強い魅力を感じ、ビジネスのやり方を学びたいと思い就職先に決めました。

 ところが入社したら、僕の手取りが10万円を切っているわけです。寮もないので家賃を払ったら5万円も残らない。このままでは飯も食えないので、ある日、社長に直談判しました。すると社長から、「お前、学歴で給料を貰おうとしているのか?もっと欲しいんだったら、いくらでもやるから仕事で成績を出してから来い」とかえって挑発され、つまらないことを言ってしまったなって思うと、急に恥ずかしくなって、「わかりました。見ててください」とだけ言って社長室を後にしました。若かったですね。

 それからは血眼になって、断られ続けても一件一件飛び込みセールスをしました。すごく大変だったけど、その分、吸収力も半端ない時期でしたね。それから、バンバン売り上げていって、全セールスマンの中でトップになっちゃった。給料も2年目には1千万円に。夢が明確だったので、起業資金のために毎月堅実に何十万円も貯金し、数百万円貯まった頃にアメリカで起業する準備のために、会社を辞めて長崎に帰りました。

 しかし父は、「アメリカ人がお茶なんか飲むはずがない。人間の味覚を変えるには3世代はかかる。だからお前の時代では無理だ」と猛反対。アメリカに行くと言うと、皆反対するので、僕は「なんで反対なの?」って聞いて回ったんです。わざわざ親切で反対してくれているので、納得するまで分析しました。意地張って行ったって仕方がないので、絶対に成功するための大事なプロセスでした。

 ようやく84年の春、ちょうど坂本龍馬が脱藩した28歳の3月にアメリカに再渡米しました。敢えて同じ日に日本を離れ、テキサスへ渡りました。実際、ビザや会社の作り方もわからず無知だったけれど、そこは次男坊の無鉄砲さがあったんでしょうね。

テキサスから全米に行商し一人で開拓

テキサスから全米に行商し一人で開拓

(左)1988年、JFC International Inc.(NY支店)へ商品を初入荷、取引を開始。当時担当の中島氏と(現Vice President)

(右)渡米以来の心の故郷・テキサス、35年来の仲間とディアーハンティング


 テキサスには会社設立の84年から89年の5年間居ました。アメリカ人にお茶を売り込んでも、やっぱり当時は難しかったですね。最初は商品を日本から小口輸送するコストが高いせいで商品の価格も割高になってしまい、結果としてさらに売れないという悪循環の繰り返し。どこかで解消しないと、潰れるしかないじゃないですか。だから一生懸命行商して全米を回りました。売り上げも少なかったですし、飯も食えなかったけれど、情熱と充実感だけはありました。「俺はこれで生きていけるな」という自信にも繋がりました。

 85年に高校の同級生だった家内を長崎に迎えに行き、アメリカに連れて帰りました。その後すごくタイミングが良かったのが、86年にヤオハン、87年にBenihana、88年JFCと当時日系の大手スーパー、レストラン、問屋3社との取引きが始まったんです。小口で送っていたお茶がコンテナになって、飛躍的なコストダウンができました。

 テキサスの人は「What you pay, what you get」という言葉をよく口にしますが、まず先にpayしないでgetしようとしてもムリなんですよね。payって言うのは時間、お金、リスク、努力など色々です。テキサスの人たちにはあらゆることを教わりました。

 そもそもテキサスの地を選んだのは、大学生の時にヒューストンからメキシコ行きの飛行機の中で偶然知り合った、アメリカ人家族との出会いがきっかけなんです。親切な家族と隣席して親しくなり、テキサスの彼らの家にホームステイさせてもらうことになったんです。一年間、家族の一員として過ごしました。この地でアメリカのいわゆるサザン・ホスピタリティや食生活を体験し、アメリカ社会を学ばせてもらったと言っても過言ではありません。後にこの体験が、ビジネスにも大変プラスになりました。30年以上経った今も彼らとは家族ぐるみで交流があり、アメリカの家族だと思っています。

 その後、89年にカリフォルニアに移り住みました。最初の10年なんて自分から攻めない限りは、ビジネスの声が掛かることは一回もなかったですね。でも、どんな時もNever give upの精神を貫き通しました。ちなみに僕の名前の「拓」は、「開拓」の拓だと父から聞かされていました。小さい頃から名前負けしないようにってよく言われましたよ(笑)。

アイスクリームで起死回生

アイスクリームで起死回生

(左)1993年、抹茶アイスクリーム新発売。各所で売り切れが続出した

(右)1999年、世界初抹茶ラテ新発売。(写真は2001年撮影の広告用)


 90年ぐらいから毎年円高が進んできました。当時は店舗と卸しをしていたのですが、円高になったからといってすぐに値上げなんてできないから、利益が取れない。日本の為替と関係のない現地調達できる商品をと、苦肉の策で考え出したのがグリーンティーアイスです。アメリカ人にお茶を飲ませるには時間がかかるけど、グリーンティーアイスなら、甘いデザートだから食べやすいかもしれないと閃いたんです。

 まずは小さい工場を探して飛び込みで、グリーンティーアイスを作れないか訪ねて回りました。当時、誰もグリーンティーを知らなかったので、抹茶の配分量も全部自分で決めたレシピを元にできあがった試作品を、うちのお茶の大手取引先Benihanaに持って行きました。Benihanaの主な顧客はアメリカ人なので、彼らのテイストに合えば必ずアメリカで浸透すると考えたんです。ついに試行錯誤を経て完成しました。

 ヤオハンを始めとするLAの小売店で、僕と家内でデモ販売をやりました。人工着色料で作ったものとは違い、前田園のグリーンティーアイスは本物の抹茶を使っているとアピールして、デモのビジュアルスタイルも完璧に。結果、最初から売れ行き好調。売切れ伝説を作ろうと僕と家内で必死に試食をすすめて売り込みました。お蔭様でグリーンティーアイスは、93年発売開始から昨年20周年を迎えることができました。

 翌年には、日本で小豆を研究をして小豆アイスも売り始め、それも爆発的に売れました。95年に僕がグリーンティーアイスを日本に輸出し、翌年にはハーゲンダッツが発売を開始、日本でグリーンティーアイスブームが巻き起こりました。世界のグリーンティーアイスブームに火を点けたのは僕だと自負しています。その後、新商品の餅アイスも販売。40歳そこそこだったけど、良く動き回っていましたね。

お茶の革新はクールジャパン

お茶の革新はクールジャパン

2014年、「Matcha Booster」を新発売。抹茶ブームを狙う

 お茶の革新って何だろう、新しいお茶って何だろうって常に考えてきました。砂糖やミルクを入れてお茶がわかるのかって言いますが、別にいいじゃない。間口は広くすればいいんです。アメリカ人の味覚は、この30年で飛躍的に上がったんですよ。ワインだって100ドル、200ドルのものを飲むわけですし。味覚を変えるのに3世代かかるって言われて来たけど、今では短縮されていると思いませんか。アメリカ人だろうが誰だろうが、わかる人にはわかるし。「お前わからないだろう」じゃなくて、逆にどうやってわかってもらうようにするかです。

 僕が30年やって来たことは、日本茶の革新的アプリケーションを世界へ広げる、まさにクールジャパンなんですよね。僕のお茶は「守・破・離」の離、つまり無茶をしようと思って来ているので。もっと新しいことをしようと考え、トーランスにグリーンティーテラスというお茶のカフェをオープンしたのが99年の11月です。その後、2001年10月にウエストウッドにもオープンしたんですが、07年に閉店してしまいました。ぜひまたオープンさせたいですね。

 ようやく会社も創業30年、僕も60歳近くになってきましたし、今までの感謝からも、今後は会社としての社会的価値を考えながら、お茶を通じて社会貢献ができればなって。僕が長年培った経験を生かして、革新的に日本のお茶の魅力を世界に伝える仕事を、これからもずっとスタッフと共に健やかに続けたいと思っています。

~信条~

~信条~

2012年9月に社屋を同じアーバイン市内に移転。明るく開放的な新社屋のロビーは、East meets Westを表現

Photo by Gene Shibuya

Never Give Up

「失敗した所で辞めてしまうから失敗になる。成功するまで続けていれば失敗はない」松下幸之助さんの言葉です。














G.T. JAPAN, INC. dba MAEDA-EN President & CEO 前田拓氏

Taku Maeda■1956年、長崎市生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、日本の企業で営業を経験し退職。84年3月テキサスへ単身渡米し、G.T. Japan, Inc. dba MAEDA-EN設立。89年から海外初の日本茶小売専門店を3店舗運営。95年には抹茶アイスを日本へ“初”逆輸入し、日本で抹茶アイスブームの先駆けとなるなど、“Green Tea Ice Cream”を世界で愛される商品に育て上げた。2011年には、豪州で製造販売開始。14年、新商品“Matcha Booster”4種を発売。日本茶メーカーとして海外で創業から30年間ビジネスを続けている唯一の企業である。89年よりカリフォルニア州に移住。現在はニューポートビーチ市在住。Green Teaのある21世紀型生活シーンの創造と世界への普及浸透の実現のため、日本の良質な商品、原料、資材等を世界の国々へ輸出販売している。 LA Nagasaki-kai会長

会社概要

社名: G.T. JAPAN, INC. dba MAEDA-EN
本社所在地: 1652 Deere Ave., Irvine, CA 92606
事業内容: 日本茶および革新的アプリケーションの販売普及
売上食: 2億食(4オンス/1食換算)
※抹茶アイスクリーム他累積販売量
従業員数: 20名
創立: 1984年
Web: maeda-en.com


2014年10月号掲載