挫折を繰り返し立ち返った原点。生きていること自体がチャンス

挫折を繰り返し立ち返った原点。生きていること自体がチャンス
©2014 SUPERFILMMAKER INC.

アメリカでの映画製作を経てLAから日本に拠点を移し、国内外で活躍中の映画監督、中島央氏。監督になるまでの様々な経験や数々の挫折、新作映画へ挑む心境を伺った。

父の影響で幼い頃から映画三昧

父の影響で幼い頃から映画三昧

(左)多くの映画祭で絶賛された映画『Lily』撮影中。遊園地のデートシーンの撮影前に、俳優たちとシーンの打ち合わせ

©2014 SUPERFILMMAKER INC.

(右)『Lily』撮影現場にて。遊園地でカップルが遊ぶモンタージュ・シーンの演出中

©2014 SUPERFILMMAKER INC.

 もともと映画好きの父の影響で、物心ついた頃から多くの映画を観て育ちました。『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公トトのように、毎週末、父と映画館に行くことが楽しみのひとつで、家にも映画作品のビデオが数多く揃っていました。当時は『スター・ウォーズ』、『E.T.』や『スーパーマン』などのハリウッド映画が全盛期の時代。当然スティーヴン・スピルバーグやジョージ・ルーカスといったハリウッドを代表する監督の作品から、ジャン=リュック・ゴダール、フェデリコ・フェリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、アンジェイ・ワイダといったヨーロッパの巨匠たちの映画まで、とにかく世界中の映画を観ていましたね。

 14歳の頃、ふと本屋で見つけたルーカスの伝記を手に取ってみると、彼が学んだ南カリフォルニア大学(USC)の映画学科についての記述があり、世の中に映画を学べる大学があることを知りました。英語をほとんど話せなかった僕でしたが、「いつかUSCで映画を勉強したい」と強く思ったことを今でも鮮明に憶えています。

 しかし、夢とは裏腹に学生時代はひどい落ちこぼれで、高校は10校受験してすべて不合格。ギリギリ二次募集で倍率0倍の高校に滑り込みました。しかし片道1時間の朝のラッシュや、体育の授業で校庭を10周走らされるのにうんざりして、1年生の時に中退してしまいました。その後、近くのスーパーでアルバイトをしながら、毎日映画館通いをしていると、親から「こんなんじゃだめになる。牧場にでも行って泊まり込みで働け」と言われました。その時、ニュージーランド留学のパンフレットを見つけ、ニュージーランドの高校に入学してやり直すことにしました。

 「お前はだめだ」と上から否定される教育がまったく合わない性分で、褒められないと育たないタイプ。そんな自分には、自由に意見を主張できるニュージーランドはことの外合っていたようです。一年多くかかりましたが、19歳で高校を無事卒業し、今度はアメリカに舞台を移し、いよいよ夢だったルーカスの母校USCを目指しました。

挫折続きの学生時代。父の病気が転機に

挫折続きの学生時代。父の病気が転機に

『シークレット・チルドレン』(2014年春公開)ラスト・シーン直前の撮影現場。企画から完成までの製作すべてに関わるのも自分流の映画作り

©2014 SUPERFILMMAKER INC.

 しかし実際にUSCに出願すると、あっさり不合格に。人生思い通りにはいかないものです。ほかに、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校の映画学科にも出願したので、そちらへの入学を決意し、学費や寮費を支払って正式な合格証書が届くのを待っていました。しかし、肝心の証書が一向に送られてこない。入学日も近づいていたし、何かの手違いだろうと、留学準備を整え日本を出発し、学期開始の直前に、学校の事務局を直接訪ねました。まだ証書が届かないことを事務局の受付で言うと、「あなた合格していませんよ」と一言。最初に届いたドームの入寮案内などを読み、結果として不合格だったのに、合格だと信じて疑わなかったのです。あの時は、受け容れてもらえなかった疎外感にかなり落ち込みましたね。今までの人生、こういうドジなエピソードや挫折は数え切れないほど経験してきました。結局、LA在住の母の友人に助けられ、オレンジ・カウンティーにあるコミュニティカレッジの映画学科に通うことになり、そこでようやく映画を実践で学ぶ機会に触れることができました。在学中に何本か撮った短編はどれも評判が良く、自分もやる気満々だったので、それがどんどんエスカレートして、10分の課題を勝手に25分に延ばして撮るなどしていましたね。人生で最も真剣に勉強した時代です。

 この頃、大学の先生に「君は自分が思っているよりずっと上に行ける」と褒めてもらったことがすごく励みになりました。基本的に落ちこぼれだったのですが、一度ハマると周りを気にせず突っ走る性格が良い方向に出たのでしょうね。ところが、自信が付いたら今度は逆に調子に乗ってしまい、次は長編映画を撮ろうとしました。しかし実際に始めてみると、まったくスムーズにいかず、色んな人たちを巻き込んでしまい、一年以上かかって気付くと周りから友達や仲間が誰一人いなくなっていました。

 カレッジに3年通った後は、サンフランシスコ州立大学映画学科に編入したのですが、その苦い思い出が強く残ってしまい、それからしばらくは、周りも驚くほど映画への情熱をどこかに置き去りにしたまま、音楽活動をしたり、デートをしたりして、体たらくな学生生活を過ごしていました。

 そんなある日、日本から父がくも膜下出血で倒れたという連絡が入り、帰国を余儀なくされたんです。幸い、命に別状はなかったのですが、そのまま日本で看病をしなければならない状況になり、父の傍で過ごす毎日が始まりました。もうアメリカには戻れないかもしれないなぁと思いながら、「チャンスを与えられていたのに、なぜ一生懸命やってこなかったんだろう」と、もの凄く後悔の念に駆られました。しかしある時、デビット・リンチの『ストレイト・ストーリー』をいつものように親子で鑑賞していると、観終わった時に父が突然、「アメリカに戻りなさい」と言ってくれたんです。これは神様が与えてくださったチャンスだと思い、もう一度必死で映画に取り組もうと心に誓いました。その後、大学に戻ってから『イン•ザ•アパートメント』という35分の短編を作り、それを出来る限り多くの映画会社に送りました。晴れて大学を卒業したのは2003年、28歳の時です。

脚本家として2年。監督を目指してLAへ

脚本家として2年。監督を目指してLAへ

『シークレット・チルドレン』の撮影中にクローン捜査官役の役者へ演技指導。自分のビジョンを的確に伝えることも、監督の大切な仕事の1つ

©2014 SUPERFILMMAKER INC.

 『イン•ザ•アパートメント』によって、監督としてではなく、脚本家としての才能を評価してくれたサンフランシスコのプロダクションがあり、卒業後、そこに就職しました。監督になりたいというはやる気持ちは常にありましたが、そこで働いたことで脚本家としての手応えを掴むことができたのは収穫でした。そして2年後、もう一度LAで挑戦しようとオレンジ・カウンティーに引越しました。映画と言えばハリウッドですが、僕は少し離れた田舎にいて、もの作りに集中する方が性に合っているんです。しかし、短編の企画を練っては、プレゼンを繰り返しましたが、にっちもさっちもいかなくて、もう諦めかけていた矢先、ある会社から声が掛かり、短編映画製作のオファーをいただきました。その作品が数々の賞を獲得、プロの映画監督として認めてもらえるきっかけとなった短編映画『Lily』です。これを機に色々な製作会社から声が掛かるようになり、紆余曲折を経て、『Lily』の長編化が実現しました。長編『Lily』を撮り終えた際、同じヴィジョンを持って映画作りをしていけるブレーンをもっと増やすべきだと痛感しました。今のままではだめだと直感が働き、13年暮らしたアメリカを突如離れ、日本に帰国することを決意したんです。

 高校中退以来ですから、当然知り合いはゼロ。帰国後は、映画関係者に限らず、ビジネス交流会や町の商工会議所など、出会いのチャンスがあると思えばどこにでも出向いて、自分でチラシを作っては、それをコピーして営業して回りました。しかし実際は、まともに話を聞いてくれる人すらいない状態。関係者宛にメールを何百通も送りましたが、返事をくれた人はゼロでした。そこで再び挫折です。しかし、そんな中でも、「日本では法人化する方がいいよ」などとアドバイスをくださる方もいて、ついに自分の会社「スーパーフィルムメーカー」を設立し、試写会を企画して、できるだけ多くの人に作品を見てもらう機会を自ら作っていきました。

 今振り返ると、日本に帰ってきてからは、とにかく無我夢中でした。辛いというよりは、むしろ久しぶりの日本をエンジョイしていたのかもしれません。落ち込むこともありますが、基本的にはとても前向きで楽観的な性格なんだと思います。

長編2作からの学びを糧に。観客が喜ぶ映画作りを

長編2作からの学びを糧に。観客が喜ぶ映画作りを

『シークレット・チルドレン』の子役2人に演出中。キャスティングは作品に大きく影響する重要事項。どの役もオーディションに時間をかけている

©2014 SUPERFILMMAKER INC.

 こうして必死になって人に会っていると、必ず自分の作品を気に入ってくれて、手を差し伸べてくれる人が不思議と現れるんですよ。出会いが出会いを呼び、気付いたら再び映画作りに挑戦できる環境が整っていました。

 当時、「中島くん、これ作ろうよ」と声をかけてくださったのがFOXインターナショナル・チャンネルズとひかりTVでした。そこで製作した長編映画『シークレット・チルドレン』では、前作『Lily』で評価してもらったものをすべて壊して、ゼロから新しいもの作りに挑戦しました。100%全身全霊で映画を撮っていましたが、今思えば、純粋に作品を作りたいという情熱だけでなく、しっかり作らなければという使命感や責任感、また監督として世間から認められたいという意識も強かった気がします。

 監督になる前は、映画作りで勝負するための土俵に辿りつけないことへの挫折感でしたが、今度は自分の想いが伝わらないことや、作りたいヴィジョンとかけ離れていくストレスなど、今までとは違った挫折も味わい、自分を見失ったこともありました。また自分の哲学をそのままストレートに表現しても、理解してもらえることは少なくて、どうやって噛み砕いてスタッフや観客に届けるかという伝える手段も自分自身が学んだ気がします。また、クオリティーの高い映画を作るためには、ある程度お金もかけなくてはいけないし、そのためには、スポンサーや観客を含めて、映画に関わる人たちに共感してもらわなければなりません。より多くの人に観てもらうことで、厳しい評価を受けたり、他人の意見で落ち込むこともしばしば。辛い思いもたくさんしましたが、自分の将来のためにはとても貴重な経験だったと思っています。

 また、現在、ひかりTVで独占配信している、同局初の4K短編映画『SUMMER TOKYO』以降、自分の映画監督としての新たなステージが始まったと思います。この脚本は、仕事に疲れて帰宅した人が、この作品を観て元気が出る瞬間を想像しながら書きました。一番大切なのは観客。スクリーンの前にいる人たちを喜ばせるにはどうしたらいいかをもっともっと貪欲に考えていきたいです。

 これからは他人との比較ではなく、自分自身との勝負。映画に不可欠な他の要素とのバランスを取りつつ、自分の哲学やテイストをどの作品にも、少しずつ注入していけたらと思っています。

 短編の『Lily』が完成した時、LAの友人たちと、仲間内の狭いアパートの一室に集まり、手作りの食べ物を持ち寄って完成披露試写パーティーをしました。みんなが純粋に完成を喜んで、素直に感動してくれたあの時間は、僕の原点であり永遠です。多くの挫折を経験した今、あの場所に一周回って戻ってきた気がしています。これからも、あの時の気持ちを観客の皆さんと共有出来るような映画作りに打ち込んでいきたいと思っています。


映画監督 中島 央氏

Hiroshi Nakajima■東京都生まれ。カリフォルニア州にて映画製作を学び、2003年サンフランシスコ州立大学映画学科卒業後、脚本家としてキャリアをスタート。2007年短編映画『Lily』で監督デビュー。ヒューストン国際映画祭、ロサンゼルス国際短編映画祭を皮切りに世界中の映画祭で幅広く上映され、最優秀短編作品賞や最優秀監督賞などに計8部門ノミネート、うち4部門で受賞。2010年、短編『Lily』を基にした同名の初長編映画を製作。日本でも劇場公開され、半年間におよぶロングランとなった。2014年、長編2作目となる『シークレット・チルドレン』公開。現在、ひかりTVにて『SUMMER TOKYO』がVOD配信中。次回作『イニシエーター』も進行中


文 = たかつなかやこ

2014年12月号掲載