新春特別インタビュー|シンガーソングライター 八神純子さん

新春特別インタビュー|シンガーソングライター 八神純子さん

1978年のデビュー以来、『水色の雨』、『パープルタウン』などの大ヒット曲で名を馳せたシンガーソングライターの八神純子さん。80年代にLAに拠点を移し活動を休止していたが、数年前より日本で歌手活動を再開。復活までの軌跡と今後の夢について伺った。

芸能活動は今年で40周年

 実は、デビューは1978年ですが、それ以前にアマチュア時代にシングルを2曲発表していましたから、芸能活動は今年で40周年になります。1986年に結婚して翌年ロサンゼルスに移住してからは、アメリカで子育てに没頭し、15年間の活動休止を経て、2011年に日本でシンガーソングライターとしての活動を再開しました。仕事に合わせ、日本行きの飛行機のチケットを予約していたその日は3月11日。偶然にも東日本大震災が起きた当日でした。私が今、なぜ再び歌うのか、自分の進む道がわかった気がしています。

憧れ続けたアメリカ

憧れ続けたアメリカ

コンサートのリハーサル中の一コマ。客席にはまだ誰もいない静まり返った会場。凛とした空気に自然と背筋が伸びる瞬間

 幼い頃からバーブラ・ストライサンドを始め、アメリカの音楽が大好きでした。学生時代は洋楽ばかり聴いていましたね。しかし、歌詞カードの日本語訳を見ないと英語の意味がわからないもどかしさがあり、原語で意味が理解できたら一生を通じての喜びなのになぁと常に思い続けていました。16歳の頃、世界歌謡祭などに参加すると、海外から来た人たちは、見知らぬ人同士でも、皆で優雅に英語で会話している光景を目の当たりにして。日本人って本当に話せないんだと痛感し、英語ができないことは損だと思いました。アジア人でも、例えばシンガポール人はブリティッシュ・イングリッシュで堂々と会話をしますよね。その頃から、アメリカにはいつか住みたいと思うようになりました。日本も、今頃になってようやく小学校に英語教育を取り入れていますが、まだまだ長い道のりです。

母として子育てに夢中

 メジャーデビューして36年経ちましたが、子育ての期間は歌手活動との両立はできなかったですね。子育てをしている時は完全に母親モードになっていたので、両方に手を出すとどっちも中途半端になってしまうと思い、活動を続けようという気持ちが保てなかったんです。私の世代の女性アーティストで子育てを経験した人ってあまりいないんですよね。それだけアーティストの仕事はタフだということです。中途半端にだけはしたくなかったので、アーティストとしての活動の方をすっぱり辞めてしまいました。その当時、もしLAで仕事があったり、9時から5時までのパートの職場だったりしたらどんなに良かっただろうと思ったこともありましたし、試行錯誤すれば日本でどうにか歌を続ける方法はあったかもしれません。ただ、その時は目の前のことに夢中で余裕がありませんでしたね。

 子供は2人います。上が女の子で下が男の子。15年間夢中で子育てをして良かったと思います。子供があれほど可愛い時期は二度と戻っては来ませんし、女男だからお互いに興味があることも違うので、大変だったけれど楽しませてもらいました。娘は今、一人暮らしをしています。日本語も上手に話しますよ。毎週土曜日に早起きして自ら送り迎えをして、娘はあさひ学園、息子はソーテル学園に通わせました。ちょっと厳しくし過ぎたかもしれません。当時は自分でも根性が入ってたなと思いますね(笑)。

震災で悟った、自分が歌う意味

震災で悟った、自分が歌う意味

「歌う場所があれば、どこにでも飛んで行きます!」今は歌うことが楽しくって仕方ないと語る八神純子さん

 息子は今21歳になったのですが、彼が18歳になったら芸能活動を再開しようと決めていました。アメリカ社会は子供が18歳になると親は手を離しますが、日本人の母親としてはなかなかそれができなくて。しかし、ちょうどその頃から少しずつ仕事の話をいただくようになったので、徐々にこなすようにしていきましたね。日本で復帰したかった目的の1つに、私しかしてこなかった経験を歌に託したいという想いがありましたので、『さくら証書』という、息子の卒業を見送る母親の心境を綴った歌を書き上げました。

 そんな頃、日本のあるビッグバンドの記念ライブで歌って欲しいという依頼が来たんです。これを断ったら日本でステージに立つチャンスが遠のくと思い、日程を聞いて飛行機のチケットを購入しました。それが、なんと2011年3月11日。夜の便だったので、荷造りをしていたら、テレビを見ていた子供が、「マミー、日本に行けないみたいだよ」って言い出して。慌ててニュースを見たらあんなことになっていて…。驚いたなんてものではありません。3月11日は日本への直行便は欠航になっていましたが、取り敢えず行かなくてはと、まずハワイに飛んで1泊してから1日遅れで名古屋に到着しました。

 元々はイベントのリハーサルのための帰国だったのですが、震災が起こってイベント自体が半年延期になったので、すぐに名古屋のラジオ番組に出演させていただきました。「一緒に何かしましょう」って自分のメールアドレスをラジオで公開したら、その後メールが届き始めて、東北の方とも繋がりました。これが、その方たちと一緒に支援活動をスタートするきっかけになりました。

 メールをくださった方の中に現地で震災後の取材をしていた共同通信社の記者がいました。その記者が山形にある有名なイタリアンレストラン「アルケッチャーノ」のオーナーシェフ奥田政行さんが被災地で支援活動中に、「ここには食べ物だけじゃなくて音楽が必要だ」と言っていることを教えてくれました。それがご縁で、5月の半ばから奥田シェフと岩手県奥州市にあるレストラン「ロレオール」のオーナーシェフ伊藤勝康さんと一緒に、東北の色々な町を炊き出しとライブとで回り始めました。

 震災をきっかけに、チャリティーコンサートも始め、それをきっかけに何度も東北に足を運ぶようになりました。支援活動を始めてから2年経ったある日、「もしも神様がいるならば、私があの日3月11日の飛行機のチケットを買っていたのは、この活動を支援するために呼ばれたんだ」って突然感じたんです。そういうことをあまり信じないタイプなのですが、今回ばかりは考えずにはいられませんでした。「なんであの日のチケットを買っていたんだろう?なんであの時から日本で歌う予定だったんだろう?」と思ったら何かに導かれたとしか思えなかった。自分から動いたことで縁が繋がっていくことがどれほど素晴らしいことかを、震災を通して教わりました。


シンガーソングライター 八神純子さん

Junko Yagami■1978年『思い出は美しすぎて』でデビュー。デビュー前よりYAMAHAのポピュラーソング・コンテストやチリ国際音楽祭などで入賞。デビュー曲に続いて『水色の雨』が大ヒットし、その存在を幅広く知られる。以後、『想い出のスクリーン』、『パープルタウン』、『ポーラー・スター』『Mr.ブルー』、『I’m A Woman』などのヒット曲を生み出す。その後渡米し、ブルガリア音楽祭「ゴールデン・オルフェウス」にアジア代表として参加、米国グラミー賞受賞の「ブルガリアン・ヴォイス」とのジョイント・コンサートを世界で初めて実現。数々の著名アーティストとの共演・レコーディング参加・CM出演など、グローバルな活動を展開しつつ、2011年より、日本でのコンサート活動を再開。東日本大震災以来“Trans-Pacific Campaign”を立ち上げ、精力的に支援活動を続けている。ニューアルバム『Here I am premium』、『The Night Flight』が絶賛発売中。ロサンゼルス在住。


今が一番自然体シニアのアイドルシンガーを目指して〜その2〜へ


2015年02月号掲載