チャンスが多いLAに乗り込み自らアメリカンドリームを掴む

チャンスが多いLAに乗り込み自らアメリカンドリームを掴む

スティービー・ワンダーのバックミュージシャンの一人として活躍するギタリストの中村陽平氏。ゼロからビックスターのバックで演奏するようになるまでの道のりについて伺った。

ギターとの出会いは中学3年生。“面白そう”からすべてが始まった

ギターとの出会いは中学3年生。“面白そう”からすべてが始まった

(左)日本のコマーシャルソングのレコーディングにも参加。サンタモニカのVillage Recording Studioにて

(右)「Stevie Wonder Songs In The Key Of Life Tour」では憧れだったスティーブン・タイラーと共演を果たす。ナッシュビルにて


 神奈川県川崎市のごく普通の家庭に生まれ、音楽的な環境で育ったわけではありません。叔母と従妹の影響で小学生の時に5年程ヴァイオリンを習っていましたが、音楽が好きだったからというより玩具で遊ぶような感覚でした。自らの意思で始めた楽器でしたが、家でクラッシック音楽を聴く習慣もなかったので2~3年で飽きてしまいました。ところが自分で言い出したことなのだから、と聞き入れてもらえず嫌々続けましたが、中学に入って部活動を始めたことを言い訳に辞めました。

 ギターとの出会いは中学3年生の時。同級生がエレキギターを持っていて、漠然と「なんか面白そう」と弾き始めたのがきっかけです。当時MTVでエアロスミスの“Eat The Rich”のビデオを観るなど日常的に洋楽に触れていました。最初は地元のギター教室に通いましたが、あとは独学です。高校3年間はバンド活動というよりも、あらゆるジャンルの音楽を聴いて耳でコピーして好きに演奏する毎日でした。

 常にギターが身近にあったので卒業後の進路を考え始めた時には、ごく自然に音楽をやりたいと思いました。漠然とアメリカで音楽の勉強をしたいと思っていたのですが、英語だけは必要性を感じて成績も良かったのです。そこで、LAにある音楽専門学校と留学提携をしている東京コミュニケーションアート専門学校に進学しました。そして、2年目の20歳の時にロサンゼルス・ミュージック・アカデミーに1年間の留学。帰国後はアルバイトをしながらインディーズバンドで演奏しつつも、音楽的にはくすぶっていた日々でした。そんな時に雑誌でバークリー音楽大学の奨学金オーディションの広告が目に留まりました。留学した1年間では物足りなかったことに加え、その後の日本での生活も先行きが見えずに悩んでいたため、何かを変えたいという気持ちもあいまって、これはチャンスだと。オーディションに合格して奨学金がもらえたのは、本当に大きな転機でしたね。それによって2001年に再び留学することができました。

大学で受けた刺激。卒業後に見た現実

大学で受けた刺激。卒業後に見た現実

Sheila E.と仕事をした時のツーショット

 2度目の留学は自分に拍車をかけてチャレンジしていきたいという強い想いがありました。演奏に関しては独学でもある程度は可能なので、大学ではアレンジングやレコーディングなど様々な分野をかいつまんで学ぶことができる「プロフェッショナル・ミュージック」を専攻。やる気のある人には得るものが多い学校なので、2004年春に卒業するまでの3年半であらゆることを学びました。ジャズに特化した学校なのでジャズ理論はみっちり叩き込まれ、基礎的な力はしっかり身に付いたと思います。勉強だけでなく、世界中から音楽を学びに来ている人たちとの素晴らしい出会いにも恵まれました。ジャズピアニストとして世界で活躍する上原ひろみさんとはほぼ同時期に留学していましたし、グラミー賞を受賞したエスペランサ・スポルディングも後輩です。学生の時からプロとして演奏の仕事をしている人も多いので同級生からもたくさんの刺激を受けることができるのも、バークリーで学んだメリットだと言えるでしょう。

 それでも、音大を卒業したからといって、たやすく仕事の依頼が入って来るわけではなく、卒業後は小さな演奏の仕事を細々とこなす毎日。ボストンでは結婚式やコーポレート・パーティーで演奏するウエディングバンドが盛んなため、そこに所属してからは安定した生活を送るようになりました。毎週末、行先は違いますが、タキシードを着て同じセットリストを演奏する。営業用バンドですから、クリエイティブな感じはまったくありません。決められた曲をオリジナルのレコーディング通りに弾くだけなので、大して面白くもなく、演奏中はひたすら無の境地でしたね(笑)。このままやっていても将来が見えないと感じ始めた頃、自分の中にあった、いつかLAに戻りたいと言う気持ちが高まってきたんです。こんなモチベーションで演奏を続けるのは良くない。ウエディングバンドはお金を稼ぐために2年間だけと決め、2009年に新境地を求めて再びLAに移住しました。

LAでの新たな出会い。巡ってきた千載一遇のチャンス

LAでの新たな出会い。巡ってきた千載一遇のチャンス

「U.S. Army Bases Tour 2011」ではチャカ・カーンのメンバーとイラクを訪れた

 LAにはバークリー時代の知り合いが数人いる程度で、ほぼゼロからのスタートでした。色々な店で行われているジャムセッションに顔を出し、最初は飛び入りで一曲だけでも弾ければ…というところから始めました。そして徐々にコネクションが広がり、チャカ・カーンのミュージック・ディレクター兼ベーシストで、今はプリンスのベーシストをやっているアンドリュー・グーシェと出会ったことが大きなターニングポイントになりました。アンドリューがやっていたジャムセッションのホストバンドに顔を出すうちに気に入られ、「このハウスバンドのギタリストにならないか」と声をかけてくれたんです。そして2011年にチャカの仕事を紹介してくれました。LAフォーラムで行われたプリンスのコンサートの前座でしたが、それが有名なアーティストとの最初の仕事になりました。

 ギターを始めた頃はいわゆる「耳コピ」と呼ばれる、耳で聴いて真似て演奏する概念すら持っていなかったので、譜面を見て弾いていました。ギター教室の先生の勧めでブルースを聴くようになったのがきっかけで、耳で聴いて曲のキーを見つけて適当に合わせることを覚えました。そしてバークリーでは頭で理解する音楽理論を学びましたが、演奏者としての柔軟性が身に付いたのは仕事を始めてからです。チャカとの初仕事は4、5日前にいきなり飛び込んで来たもので、CDとライブのDVDを渡されてリハーサルもなく即本番でした。驚くかもしれませんが、こちらではよくあることです。

 シーラ・Eと仕事をした時は、ギタリストを探していると彼女から直接連絡を貰ったんです。その時も、あらかじめ曲のリストが渡され、メールで音源やそのリンク先が送られてきて、それを耳コピするという流れでした。細かな箇所はリハーサルで打ち合わせるか、さもなければ本番当日のサウンドチェックで合わせる。だから曲を聴いて反応する対応力が自然と身に付きましたね。周りはバークリーのジャズ理論とは違うもっと自由な発想をするゴスペル出身のミュージシャンが多く、ゴスペル特有の音楽のボキャブラリーを持った人たちの中に入った当初は戸惑いましたが、今ではその場の雰囲気で自分からリードしたり、相手に合わせることができるようになりました。

スティービーのバックバンドに抜擢。常にクビ覚悟の真剣勝負

スティービーのバックバンドに抜擢。常にクビ覚悟の真剣勝負

(左)「Stevie Wonder Songs In The Key Of Life Tour」にて

(右)2013年、スティービー・ワンダーとバンドメンバーと香港にて


 2013年に受けたオーディションがきっかけで、スティービー・ワンダーのバックミュージシャンに選ばれました。オーディション後に僕ともう一人合格したギタリストの2人が、野外フェスをやっていたニューヨークに呼ばれました。スティービーにはレギュラーのギタリストが2人いましたが、彼らに代わってサウンドチェックの時だけ弾けと指示されました。後になって思うと、それが二次審査だったのでしょう。スティービーがちゃんと聴いているのかどうかすら、わからない状況でしたが、その後しばらくして連絡があり、次は香港のイベントに呼ばれました。それは本番での演奏だったのですが、それが最終審査だったのではないかと自分の中では密かに思っています。それから、2013年にハリウッドで行われたクリスマスパレードに参加するなど単発の仕事で何度か声が掛かり、去年の夏にはヨーロッパツアーに初参加。秋からは「Songs In The Key of Life」ツアーにも同行しました。ギタリストが2人いるのでそれぞれのパートを把握しておかなければならないし、セットリストもないので何の曲をやるのかはその場になるまでわからない。打ち合わせにない曲が始まったら、ステージ上で互いに目で合図しながらパートを分けるので、脳細胞をフル活用していますが、それが刺激になって楽しいです。実は母がスティービーのファンで、子供の頃によくレコードをかけていたこともあり、潜在的に彼の曲が身体に染み付いていたのかもしれませんね(笑)。去年ツアーに招待できて少しだけ親孝行ができたように思います。

安定はないが充実の毎日。死ぬまで演奏を続けたい

安定はないが充実の毎日。死ぬまで演奏を続けたい

2014年、スティービー・ワンダーのヨーロッパツアーにてサウンドチェックの最中

 最近になってようやく仕事を選ぶ贅沢を手に入れました。LAに来た当初はがむしゃらに何でも引き受けていましたが、今は自分のフィーリングに合わない音楽はやらなくなりました。でもその分、仕事は毎回オーデョションのつもりで挑んでいますし、何かヘマしたらクビが飛んでも仕方がないという覚悟を持って臨んでいます。そこまで考えれるようになったのは、色々な人たちと仕事をさせてもらったお蔭です。

 チャンスが巡ってきて、それを拾いに行った先で、フィーリングがカチッと噛み合う人とたまたま巡り合えたこと。そしてそういう人が自分を掬い取ってくれて、次の仕事にも繋がって…とてもラッキーだったと思います。ただ演奏に集中して、その世界に入り込んでいるのが至福の時ですが、この先何があるかはいつだってわからない。仕事のスケジュールが先の先まで埋まっているわけでもなく、常に安定はありません。でも、音楽の仕事にこだわらず安定性を求めるのなら、他の仕事をすればいいわけですし、自分が好きでやっていることなので仕方がないです(笑)。

 両親に音楽の道に進みたいと話した時、「やりたいことをやればいい。その代わり責任は最後まで自分で持ちなさい」と言われました。その言葉があったからこそ横道にそれることもなく、今日まで歩んで来れたのだと思います。LAにはスティービーのような一流ミュージシャンたちと共に仕事をするチャンスがそこかしこに転がっています。演奏はいつだって真剣勝負、命の限り続けたいですね。将来的には自分のプロダクションを持ちたいので、そのための曲も少しずつ書き溜めています。素晴らしいミュージシャン、シンガーたちといずれ自分のオリジナル音楽を一緒に作れたら本望ですね。思いのまま、これからも自分の愛する音楽をやっていきたいです。


ギタリスト 中村陽平氏

Yohei Nakamura■1978年11月、神奈川県生まれ。6歳から5年間ヴァイオリンを習い、15歳でギターを始める。1997年に東京コミュニケーションアート専門学校(現:東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校)入学後、20歳でロサンゼルス・ミュージック・アカデミー(現:ロサンゼルス・カレッジ・オブ・ミュージック)に1年間の短期留学をする。一旦帰国した後、2001年にバークリー音楽大学に入学しプロフェッショナル・ミュージックを専攻。2004年に卒業後は、ボストンでウエディングバンドのギタリストとして活動するが、2009年に活動の場をロサンゼルスに移し、それ以来ギタリストとしてスティービー・ワンダー、チャカ・カーン、シーラ・E.、AIなど様々なアーティストのライブやレコーディングで演奏している


文 = 千歳香奈子

2015年6月号掲載