60年代のロサンゼルスで実感「まだ戦争は終わっていない」

60年代のロサンゼルスで実感「まだ戦争は終わっていない」

 今回は『野のなななのか』(2014年)、『この空の花―長岡花火物語』(2012年)、『HOUSE』(1977年)を上映させていただくために、2年ぶりにロサンゼルスにやってきました。ロサンゼルスは私にとっては、青春の町です。

 初めて来たのは1965年。日本で最初の海外で撮影されるテレビコマーシャルで、クライアントはトヨタ。当時のロサンゼルスでは「タヤーラ」と呼ばれて、まだまだ知られていない車でした。ロケ隊はたったの4人。そこでいきなり敗戦国民としての洗礼を受けました。リトルトーキョーのホテルのフロントでパスポートを見せたら、「私の父が真珠湾で日本人に殺された」と怒鳴られ、「Get out here! Jap!」と追い出されました。当時の日本はもう戦争を忘れて平和でしたから、こちらに来て「戦争は終わってなかったんだ」とびっくりしましたね。それで仕方なく野宿しました。

 野宿させられたあげく、今度は撮影をさせてもらうことになっていたサンキストオレンジ畑のオーナーが約束の時間になっても現れず、2時間も待たされました。それでもう帰ろうとしたら、秘書が追いかけてきて「これからオーナーが会いたいと言っているので待っていてほしい」と言われ、地下の駐車場で待っていたのですが、さらに1時間経っても現れません。そうこうするうちに、地下に通じる階段から〝コットン、コットン〟と音がして、松葉杖をついたオーナーが30階のオフィスから歩いて降りてきました。「あなたたちに会う勇気が私にはなかった。ようやく勇気を持って、今階段を降りてきました。この足はパールハーバーで失ったものです」と言われました。「本当はあなたたちが憎い。私のオレンジ畑を見せることは許せない。でも、いつまでもそう考えていたのでは平和は訪れないので、私こそがあなたたちを許して理解し、リメンバー・パールハーバーをフォーゲット・パールハーバーにしなければいけない。だから、あなたたちに私のサンキストオレンジ畑を撮影してほしい。その勇気を得るために、これだけの時間をかけてしまい申し訳なかった」と頭を下げられた。平和とは、こうやって手繰り寄せるものだと心から強く思いましたね。

 せっかくロサンゼルスに来たのだからハリウッドを見に行こうと出かけました。当時はスモッグが発生する前で町が本当にキレイでね。ハリウッド・ブルバードなんて舐められるくらい(笑)。周りを見るとみんなピカピカ光る長靴を履いていてね。とても我々の汚れた靴ではハリウッドに降り立てないと、靴を脱いでタクシーから降りました。当時は、日本の道路はまだ舗装が充分にされていなくて、日本人の靴は汚かったんですよ。ところがその時、目の前を歩いている人が履いていたのは長靴ではなくてエナメルの靴だったんですね。そして、ふと見上げるとそれはフランク・シナトラとディーン・マーティン!黒白のスクリーンで観ていた人が目の前にいて、しかもカラーなわけですから不思議な感覚です。彼らが通りすぎた後に、鮮やかな黄色の文字が目にとまり、そこには「Nobuhiko Oobayashi」と私の名前が書いてあるのです。何でだろう?と思ったら、劇場の看板にJapanese Underground Film Festivalと書かれてありました。バイヤーが買い付けた私の映画が上映されていたんです。その横には下着に野良着、長髪にサングラス姿の若者が地べたに座ってギターを弾いています。あれはなんだ?と聞いたらヒッピーだと言うのです。ベトナム戦争から逃れて、これからカナダやオーストラリアに渡るのだと。ジーンズもTシャツも見たことがないから、野良着に色のついた下着を着ているように見えたわけです。その人たちが私に新聞を差し出して見せてくれたのですが、そこには私の顔写真が掲載されていました。ホテルを追い出された一方で、ハリウッドでは私の映画が上映されている。それが初めてのロサンゼルス体験です。

70年代はハリウッド映画一色 1年の半分をLAで過ごした

70年代はハリウッド映画一色 1年の半分をLAで過ごした

1965年、初めてのロサンゼルス。アンダーグラウンド時代、手にした新聞に自身の顔写真が載っていた

  ロサンゼルスにはアンダーグラウンドのフィルムメーカーの友達がたくさんいました。ある時その一人を訪ねてみると、「ハリウッドのはぐれ者たちが映画を作ったんだけど、編集が上手くいかないから手伝っている。一緒に行ってみるか?」と誘われました。行ってみると、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーの『イージー・ライダー』(1969年)の編集だったのかな。横に座っている男を指差してこれが我々のスターだと言うのですが、それが若い頃のジャック・ニコルソンだったのかどうか。何しろあの頃はまだ、みんな無名でしたから。映画も『白昼の幻想』(1967年)だったかもしれない。当時はそうやってたくさんの若いフィルムメーカーたちと交流して楽しい時代でした。

 ハリウッド映画で育った私には70年代は天国でした。1年の半分くらいをロサンゼルスで過ごし、ハリウッドのモーテルに泊まってCMを撮っていました。80年代の中頃まで、リンゴ・スターやカーク・ダグラス、チャールズ・ブロンソンにデヴィッド・ニーヴン、サム・ジャッフェにL・Q・ジョーンズら、たくさんのスターと一緒に仕事をして、ハリウッドで遊んでいました。でも、オイルショック以降はロサンゼルスが遠くなってしまい、2年前に久々に来ましたが、ダウンタウンは本当に様変わりしましたね。私にとってのロサンゼルスは今でも20代の頃の輝くロサンゼルスなんです。憧れの国でしたが、その一方で「Get out here! Jap!」と言われ、バスに乗っても有色人種は後ろの3列にしか座らせてもらえないような体験もありました。私は戦争世代の人間だから、戦争を始めて負けた国の人間がその相手であった国に行くという緊張感は常に持っていましたね。

 ハリウッド映画で育った私には70年代は天国でした。1年の半分くらいをロサンゼルスで過ごし、ハリウッドのモーテルに泊まってCMを撮っていました。80年代の中頃まで、リンゴ・スターやカーク・ダグラス、チャールズ・ブロンソンにデヴィッド・ニーヴン、サム・ジャッフェにL・Q・ジョーンズら、たくさんのスターと一緒に仕事をして、ハリウッドで遊んでいました。でも、オイルショック以降はロサンゼルスが遠くなってしまい、2年前に久々に来ましたが、ダウンタウンは本当に様変わりしましたね。私にとってのロサンゼルスは今でも20代の頃の輝くロサンゼルスなんです。憧れの国でしたが、その一方で「Get out here! Jap!」と言われ、バスに乗っても有色人種は後ろの3列にしか座らせてもらえないような体験もありました。私は戦争世代の人間だから、戦争を始めて負けた国の人間がその相手であった国に行くという緊張感は常に持っていましたね。

戦後教育の一環で観せられた アメリカ映画に影響を受ける

戦後教育の一環で観せられた アメリカ映画に影響を受ける

1973年、ビートルズのリンゴ•スターとちょっとスナップを

 私は子供の頃から映画が大好きで、特にアメリカ映画に多大な影響を受けて育ちました。子供時代は尾道にあった9つの映画館の2本立て、3本立て上映に毎日通い、公開される全ての映画を観ました。私たちが観たアメリカ映画が日本に入ってきたのは敗戦後です。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本人の精神年齢は12歳だから映画で教育しよう、という占領政策を打ち出していました。だから例えば、『風と共に去りぬ』は1939年製作の映画で、すでに出来上がっていたのですが、私たちが観ることができたのは、日本の独立後の1959年。なぜなら奴隷制度の描写が出てくるので、日本人には観せられないというわけです。アメリカは良い国だ、良い人ばかりが住んでいる国だとね、西部劇も悪漢が出てくるものはダメ。改心して良い人になろうと努力するヒーロー物やミュージカル映画ばかり観せられたので、いっぺんにアメリカ映画が好きになりました。こうして、アメリカという国自体が憧れの国となったわけですね。

映画監督ではない 映画作家を名乗る理由

映画監督ではない 映画作家を名乗る理由

1970年代、サンフランシスコの「THE MOVIE」の前で。自身のアンダーグラウンドムービーが上映されていた

 私が社会に出た頃は、メジャー映画会社5社が助監督を採らなくなった時代でもあり、日本映画の世界は私にはまったく無縁の存在でした。だから、どこにも所属しない、日本で最初のインディーズ映画作家となりました。妻の恭子がプロデューサーで、独立したファミリープロとして当時からずっとフリーでやっています。映画監督とは東宝の黒沢明監督とか松竹の小津安二郎監督ら映画スタジオに所属している人の職能としての呼称ですので、私は映画監督ではなく、映画作家と名乗ってきました。

 それぞれの映画スタジオが特徴を持った作品を作っていましたが、独立系の自分が何を撮ろうかと考えた時、ふるさとを撮りたいと思いました。出身地の尾道が大好きでしたし、高度経済成長の中で敗戦後にもまだ残されていた、昔からの日本人の暮らしや文化が失われるのを目の当たりにし、私にはそれがふるさと壊しにしか見えなかったからです。制約の多いスタジオ映画と違ってインディーズは自由に作れますが、その分責任は全部自分にあります。今回LAで上映した『野のなななのか』、『この空の花―長岡花火物語』もインディーズで撮ったふるさと市民映画です。  70年代半ば頃、日本映画が下火になってきたある時、東宝さんから「映画を撮ってほしい」と頼まれました。メジャー映画をやるつもりはなかったのですが、11歳の娘に「パパが日本映画を撮るとしたら、どんなのが良いかな?」と聞いたら、お風呂上がりに鏡を見ながら髪をとかしていた娘が、「この鏡に映っている私が私を食べに来たら怖いよね」と言ったので、それは面白いアイデアだと思って作ったのがメジャー初作品となった『HOUSE』です。子供たちに戦争を伝えるために戦争で恋人を失ったおばあちゃんが、戦争を知らない娘たちをパクパク食べるというホラー・ファンタジーの戦争映画です。当時は日本ではこんなものは映画じゃないと言われましたが、ここから育った新時代の映画人もいて、今では世界中の人に愛されています。面白いことに、このロサンゼルスに「シネファミリー」という映画館があってね、その開館上映が『HOUSE』だったこともあって、評判が全米に広がったんですよ。世界中どこへ行っても大人気で迎えられます。

若い世代に伝えることが 戦争体験者としての使命

若い世代に伝えることが 戦争体験者としての使命

2015年9月、思い出の「シネファミリー」のステージで常盤貴子さんと登壇

 まさかと思ったのですが、ご存知の通り、日本は再び戦争ができる国になりつつあります。私は今77歳ですが、戦争体験があるからこそ、未だに映画を作り続けています。戦争を知っている最後の世代として、私たちが知っている戦争を若い世代に伝えていかないと、また次の戦争が起きてしまうかもしれないからです。でも、シリアスにドキュメンタリーでストレートに伝えても〝自分には関係ない〟、〝観たくない〟と言われてしまうので、ファンタジーやホラーという形に変えて伝えているわけです。面白く楽しく学べるのが映画の良い所。ハラハラ、ワクワクしながら大切な歴史を学べる。映画は学校なんです。でも、私が作った映画が今、すごくシリアスに捉えられるような時代になり、ジレンマを感じています。戦争映画が皆さんに受け入れられているのは映画にとっては良いことですが、世の中にとっては悪いことですから。戦争も戦争映画も無くなるのが一番良い。

 2012年に新潟県長岡市を舞台にした『この空の花―長岡花火物語』という映画を作りました。長岡では毎年8月1日午後10時30分に戦争で犠牲になった方々への追悼の花火を上げていますが、それを題材にしたものです。私たち戦争世代の人間にとって忘れたい恐ろしいことでも、未来を生きる子供たちのために、そして平和への祈りのために、B29の焼夷弾爆撃を受けた日の同じ時刻に白菊という真っ白い花火を上げています。その花火を日米合同で真珠湾で上げたいという願いが、戦後70周年の今年、ついに実現しました。

 実は長岡は、あの真珠湾奇襲攻撃のリーダーだった山本五十六元師の出身地なのです。山本五十六さんは、本当はアメリカと戦争をしたくなかった。日米友好が願いだった。けれどもあの戦争の中で、真珠湾奇襲攻撃のリーダーとなってしまった。それだけに長岡の人たちはこの真珠湾でこそ平和祈念の長岡花火を打ち上げたくて、その思いに真珠湾の米軍の人たちやアリゾナ記念館の人たちが心からなる友情で寄り添ってくださって、この夢のような花火の夜が実現したのです。アメリカでは花火はおめでたい時に上げるもので、追悼の花火という概念がなく、双方の関係者のご苦労もありましたが、映画の上映を行うなど長年の交流を通じてようやく念願が叶いました。

 1発目は真珠湾の犠牲者に、2発目は日本の戦没者に、そして3発目は未来の平和を創る子供たちのために。計3発の花火を上げました。これは日米の戦後の歴史のなかで、とても重要な平和の祭典だったと思います。『この空の花―長岡花火物語』のなかでも描きましたが、世界中の爆弾を花火に変えて打ち上げたら、世界から戦争は無くなるのです。人間は人間らしく、爆弾ではなく花火を作って暮らそうよ。そういう賢い、美しい人間になろうよと、そういうことを伝えるために映画を作っています。環境も個性も宗教もまったく違う人たちと、それぞれが理解し合い、許し合って仲良く生きようと伝えられるメディアが映画なのですから。

健康でいられる極意は 〝好きなことを一所懸命やること〟

健康でいられる極意は 〝好きなことを一所懸命やること〟

2015年9月9日、映画上映会イベントのため訪れたロサンゼルスのホテルにて、女優の杉葉子さんと歓談

 我が家は医者の家系でしたが、祖父が家で孫を診てくれるなんてことはなかったので、子供の頃から身体検査すらしたことがなく、72歳まで医者にかかったことがありませんでした。医者知らずの健康体でしたが、72歳の時に突然倒れました。でも、運良くペースメーカーを入れてもらって生き延びています。72歳まで健康でいられたのは、好きなことを一所懸命やってきたからだと思っています。好きなことだと、上手くいかなくても工夫をしますよね。撮影日に雨が降っても、「何で雨なの?」と思うのではなく、「雨だからどんなシーンを撮ろうかな」となるわけです。好きなことはプラス思考になるので、ストレスもなく健康体でいられます。久しぶりにお会いしたロサンゼルス在住の女優の杉葉子さんに、ロサンゼルスで映画を撮ってくださいよと言われましたので、握手をして一緒に映画を作りましょうよと約束したばかりです。機会があればぜひ、ロサンゼルスでも映画を作りたいですね。

 本当は倒れた時に死んでいたはずの人間ですが、東日本大震災以降も生き延びているのは、やることがあるからです。それは私が知っていることを若い人に伝えること。そのために生きているのだと思っています。それが今も映画作りを続けるモチベーションですし、生きがいでもあります。  今回は、日本と同じ被曝国のマーシャル諸島も訪ね、ロヤック大統領に迎えられ、映画の上映とティーチインを行ってからロサンゼルスへ来たのですが、今年の暮れはニューヨークです。イエール大学とハーバード大学でも上映とティーチインをします。一昨年はMoMAでもワークショップをやりましたしね。アメリカの若い人たちとの交流も平和な未来のために大切です。このロサンゼルスにもまた元気で帰って来ます。

『野のなななのか』

 大林宣彦監督が北海道芦辺市を舞台に描き出す家族ドラマ。前作『この空の花|長岡花火物語』に引き続き、生と死の境界線に焦点を当て、ある家族に隠された戦争の秘話を浮かび上がらせる。

 家長の光男(品川徹)が他界し、ばらばらに暮らす親族たちが冬の芦別に集結。そこへ突如、信子(常盤貴子)と名乗る謎の女性が現れる。信子の出現により、光男の知られざる過去とその背景にある戦争の秘話が明らかになる。

2014年5月17日公開

Nobuhiko Obayashi■1938年、広島県尾道市生まれ。2歳でブリキの映写機の玩具で遊ぶなど幼少期から映画に親しみ、6歳の時にフィルムに手描きしたアニメーションを制作。1955年に上京し、浪人生活を経て成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学。学生時代から8mmで自主映画を制作し、1963年には初の16mm作品『喰べた』で、ベルギー国際映画祭審査員特別賞を受賞。『中山道』(1961年)、『尾道』(1963年)などが、新しいフィルムアーティストの時代が来る、と反響を呼ぶ。テレビCM草創期の60年代後半からは、CMディレクターとして活躍。チャールズ・ブロンソンやソフィア・ローレンら海外スターを起用したCMの先駆けとなる。1977年に『HOUSE』で商業映画に進出。1982年に尾道を舞台にした『転校生』を発表。『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年)と合わせて尾道3部作として熱狂的な支持を集めた。最新作は2014年に発表した北海道芦別市が舞台の『野のなななのか』