春の特別インタビュー|俳優
鈴木一真氏

春の特別インタビュー|俳優  </br>鈴木一真氏

撮影:Gene Shibuya

 トップモデルから実力派俳優へと転身を遂げ、常に日本の映画界、ドラマ界、演劇界の第一線で活躍を続けてきた鈴木一真さん。文化庁の海外研修制度に参加し1年が経った今、そのまなざしの先には何が見えているのだろうか。

海外研修制度で渡米

 文化庁の新進芸術家海外研修制度でロサンゼルスに滞在して、ちょうど1年になります。家族と共に生活の基盤を築くところから始めて、あっという間の1年でした。

 新進芸術家海外研修制度は、美術、音楽、演劇などの分野で働く新進芸術家を海外に派遣し、実践的な研修に従事する機会を提供するもので、演出家の野田秀樹さん、映画監督の崔洋一さん、狂言師の野村萬斎さんなどがこの制度を使って海外研修されています。僕はモデルの仕事を始めたのが16歳、俳優としても25歳には仕事を始めていて芸歴はそれなりに長いので、新進芸術家と呼んでいただけるのかわかりませんが、こうして映画の都ハリウッドで作品作りを学ぶ貴重なチャンスを得られたことを大変光栄に思っています。

 もともと海外の映画に出てみたいという気持ちはずっと持っていたのですが、安定した生活を置いて、挑戦するために日本を長期にわたり離れるのはとても勇気がいりました。この研修制度には自分から申し込んだものの、渡米ぎりぎりまで本当に行くべきかどうか迷ってしまって…。でも妻が海外での子育てに積極的でいてくれたこと、この制度の年齢制限がギリギリだったことが決め手になりました。

 20代の頃、モデルとしてニューヨークやパリなどに頻繁に行っていたので、海外に出ること自体に抵抗はなかったのですが、1人で行くのとは違い、妻とまだ1歳になったばかりの息子を連れての渡米は正直不安でいっぱいでしたね。飛行機に乗る直前まで「誰か止めてくれないかな」なんてバカなことを思ったりして(笑)。企業の海外赴任でいらしている方も、お父さんは皆さん、同じような不安を抱えているのかもしれませんね。でも1年間こちらで過ごしてみて、思い切って家族を連れて渡米して本当に良かったと思っています。俳優としての経験はもちろんのこと、異国での子育ても、親兄弟や友人と離れ、妻と子供と一致団結して生活していくことも、すべてが貴重な経験の連続です。

都会の生活に憧れて

都会の生活に憧れて

撮影:Gene Shibuya

 生まれは静岡です。今思い起こせば、富士山が常に見届けてくれるような自然に囲まれ、最高の環境で成長したと思えるのですが、物心ついた頃から、とにかく刺激の足りない田舎生活から抜け出したいとずっと考えていました。同じ歳の友達が幼く見えてしまって、きっとかなりませていたんでしょうね。周りはプラモデルだ、野球だと盛り上がっているなか、僕はというと現実逃避したかったのか、映画館に足繁く通い、映写室に入れてもらえるほどの顔馴染みになっていました。さらにロサンゼルスに住む親戚が突然やって来た時には全身が粟立つ程の刺激を受け、海外の生活に興味を持ち、塾に通って英語を勉強するようになりました。

 当時『世界の子供たち』という色んな才能を持つ外国の子供を紹介する番組があって、それをよく観ていました。アメリカではエレキギターが上手い子や小学生なのにサーフィンが得意な子、ディスコダンスの全米チャンピオンまで出てくるんですね。一方、その時の僕の特技といったら絵を描くことくらいだったので、こんな田舎にいてはダメだと子供ながらに焦りのようなものさえ感じていました。でもどうやったら静岡を出られるのかアイデアもなく、漠然と大学に行くまで待つしかないかなと諦めていたんです。それが16歳の時に原宿でモデル事務所にスカウトされてすべてが変わりました。千載一遇のチャンスとばかりに、即決断して上京したんです。

モデルと俳優、悩んだ末

モデルと俳優、悩んだ末

2月に初めてロサンゼルスでファッションショーを開催したサン・ローランのデザイナー、エディ・スリマンのパリコレクションに出演したモデル時代

 当時はまだ高校生で、社会人として仕事をすることもプロの厳しさも一から教わらないとわからないことだらけでしたが、ファッションを通じて自分を表現できるモデルの仕事にすぐに夢中になりました。もともと洋服自体にも興味があったので、現在も第一線で活躍されているスタイリストの祐真朋樹さんのもとで修業させていただき、モデルとして服の世界観を表現すると同時に、スタイリングそのものについても勉強しました。結局、モデルの仕事がどんどん忙しくなってスタイリストとして本格的に仕事をすることはなかったのですが、この時学んだことが、その後、ヴォーグやハーパーズ バザーなどの雑誌やパリ、ミラノコレクションなど、海外での仕事に繋がったのだと思います。

 モデルの仕事で転機が訪れたのは22歳の時。日本人で初めてベネトンの世界キャンペーンに採用されたのですが、このキャンペーンの注目度が高く、タイムズスクエアにもドーンと看板が出て、世界中に顔が売れるようになったんですね。自分でもかなり満足のいく仕事ができるようになっていたので、当時モデルの最高峰という感のあったカルバン•クラインのキャンペーンにいよいよ挑戦したいと思ったんです。スティーブン・マイゼルという世界的に有名なカメラマンがシリーズで撮影をしていたのですが、とにかく彼と仕事がしたくて。俳優の仕事を始めてからも、撮影の合間にニューヨークに行く生活をしていました。

 モデルとして注目度が高まったことで、俳優の仕事もたくさんいただけるようになっていたのですが、当時は、とにかくいただける仕事を必死でこなしている感じで、どちらに集中するのか、まだ決めかねていました。演技は奈良橋陽子さんが主宰されているアップスアカデミーに通い、そこで学んだメソッド演技に魅了されていたのですが、現場ではこのメソッド演技を実行するのが難しかったです。時間的な余裕がなく、納得いく演技を追求することができなかったんですね。今思い起こせば、自分の演技力のなさを棚に上げていたのでしょう。思いっ切り演技をできないことに不満を感じ、やはり自分の本領が発揮できるのはモデルの仕事なのではないかと悩みました。結局、どっちつかずの感じになってしまっていたんだと思います。そうこうするうち、ついにスティーブン・マイゼルからオファーをいただきました。それが何と既に受けていた映画の海外ロケと重なり、断らざるを得ない状況になってしまったんです。この時は本当に悔しかったですね。モデルの仕事を極める前に俳優の仕事を始めたばかりに、道を間違えたんじゃないかと心底思いました。これをきっかけに、自分の中で仕事の方向性が見えなくなってしまい、迷いながら、いただく仕事をこなすような混沌とした日々が続きました。

朝の連続テレビ小説に初出演

 そんな折、1998年4月から放送されたNHK連続テレビ小説『天うらら』で、ヒロインの相手役を演じるチャンスに恵まれたんです。自分としては仕事のひとつとして受けたつもりが、周囲の反応はまるで違いました。家族親戚一同、とても喜んでくれて、あまりの反応にビックリしてしまいました。さすが天下の朝ドラですよね。「一真、観てるぞ!」って、名前を聞いたこともないような自称親戚が急に増えたりもして(笑)。初めて俳優というのは人に喜んでもらえる仕事だったんだなって実感したんです。もちろんそれまでも、モデルの仕事でも俳優の仕事でも〝自分を表現する〟という喜びはあったのですが、そこに人に喜んでもらう、というやり甲斐が加わったんですね。『天うらら』の撮影の最中、まるで気持ちを試すかのように、もう1回マイゼルからカルバン•クラインの仕事のオファーがあったのですが、その時はもう迷うことなく、この『天うらら』の役を最後までやり遂げたいと思いました。モデル業と決別し、俳優としてやっていこうという決意ができた瞬間でしたね。

 その後、2000年に蜷川幸雄さん演出のシェイクスピア作品、テンペストの舞台に出演させていただいたのですが、これが俳優としての第2の転機になりました。蜷川さんの舞台は俳優の演技力が試される厳しい演出で有名ですが、噂に違わず奇想天外で独特な舞台演出に、俳優としてとんでもない高みに連れて行かれるようでした。役柄自体がそれまで演じてきた役とは全く違う新境地で、必死に食らいつくように蜷川さんの演出に臨みました。相手役にも恵まれ、寺島しのぶさんには良い刺激をたくさんいただきましたね。彼女の演技力もさることながら、舞台というのはやり直しがききませんから、度胸や勝負勘は超一流だったんです。演出のプロ、演技のプロに囲まれて、この舞台への出演で俳優として成長させてもらい、役の幅も広がりました。


春の特別インタビュー|俳優 鈴木 一真氏 〜その2〜へ