デビュー4作目、公開前

デビュー4作目、公開前


 ちょうど最新作の『KARATE KILL』の撮影と編集が終わり、ほっとしているところです。監督として映画デビューをしてから今作で4作目。長編映画がどういうものなのかよくわからずに無我夢中で作り上げた初作品、なみいる映画監督のなかで自分の特長は何なのかと試行錯誤した2作目、やっと自分の方向性が見えて満足のいく作品が撮れ、各映画祭でも評価していただいた3作目を経てやっと、職業を聞かれた時に「映画監督です」と堂々と答えられるようになりました。そして、今作。焦りやプレッシャーを感じることなく、腰を据えて自分なりの作品作りができたように思います。

 映画監督になりたいと思ったのは、9歳か10歳の時。周囲の友達は野球選手だサッカーだって言ってる頃、随分ませた子供だったのかもしれません(笑)。きっかけは、テレビの洋画劇場でスピルバーグ監督の『激突』(1971年)という作品を観たこと。この作品で人生が変わったんです。大型トラックを車で追い抜いた主人公が、そのトラックにひたすら追いかけられるというホラー映画に近い作品で、子供が見るような映画ではなかったのですが、緊張感を作り上げる手の込んだ映像に夢中になり、映画の魅力に取り憑かれてしまったんですね。

 ちょうどレンタルビデオ屋が乱立し始めたビデオ最盛期で、お小遣いのほとんどを使ってビデオを借りて観まくって。子供ながらに漠然と、映画監督になるなら、映画の本場ハリウッドに行かなければと思い、中学の頃には家族に、アメリカに渡って映画の勉強をしたい、と伝えるようになっていました。

 両親も子供のたわ言だとは思わず真剣に聞いてくれていたんですね。中学3年の時、父親が偶然新聞広告で、面白い高校の記事を見つけてくれたんです。高校1年は日本の校舎で学んで、高校2年、3年はアメリカの高校に留学するというシステムを持った学校で、今でいうアメリカンスクールに近いものだったと思います。新宿のビルの1フロアを貸し切ってクラスにしているような、本当に学校なのか?と疑いたくなるようなところでしたが(笑)、それでも全科目を英語で勉強し、アメリカ人、カナダ人、イギリス人といった国際色豊かな先生に恵まれて、充実した1年間を過ごしました。2年になる時、選択肢のなかから自分で行きたいアメリカの学校を決めるのですが、僕は当然ハリウッドに近い学校に行こうと思い、地図で調べて一番近かったのが、フレズノの学校だったんですね。今考えれば笑い話ですが、全米の地図で見るとハリウッドから目と鼻の先に見えて、自転車で行けるくらいの距離なのかな、と簡単に考えちゃったんです。期待一杯で渡米してみたら、フレズノはハリウッドどころか、サンフランシスコからも相当離れたど田舎の街だった(笑)。もちろん日本人なんて一人もおらず、最初の1年は英語と孤独との戦いでしたね。マイノリティーで英語も話せないヤツなんて、誰も相手にしてくれなかった。友達も最初の1年はほとんどできませんでした。でも3年生になる頃、ふと英語がわかるようになり、友達もでき始め、先生方とも良い関係を築けるようになっていました。

 マグネットスクールとして演劇を勉強することができたこの高校のお蔭で、この後、San Francisco Art Instituteという、歴史ある美術大学に入学することができました。本格的に芸術を勉強したいという生徒が集まっているハードコアな学校で、生徒も一度社会に出た30代の大人が多かったんですね。ここに入れたのが本当にラッキーだった。夢物語ではなく、社会のなかで仕事として芸術に携わっていくのがどういうことなのか、芸術業界の現実をしっかりと見ることができたんです。映画学科に入ったのですが、ここが芸術性を追求する映画、いわゆるファインアートフィルムを課題にしていたんですね。ファインアートフィルムはどれだけ芸術的に優れていても、一般には受け入れられず、ビジネスにはならない。芸術だけでは食べていけない、という現実に直面し、自分は芸術家ではなく、職業として映画監督を選びたい、とはっきり自覚しました。そこから商業映画製作を勉強できるCalArtsに移りました。そこでショートフィルム製作やアシスタントとして実際の映画製作に携わり、映画製作のいろはをきっちりと学びました。

職業としての映画監督

職業としての映画監督

大学院時代に岡本喜八監督と奥様と一緒に。岡本監督は、監督としての師匠であり恩師でもある大切な存在

 映画学科の学生なんていうのは、実社会に出た途端に出鼻をくじかれるもんですが、私も例外なく思いっきり鼻っ柱をへし折られた(笑)。短編映画も作っていたので、誰かが作品を見つけてくれてチャンスが訪れるんじゃないか、くらい甘く考えていたんでしょうね。でもそんなことは一切関係なく、無からのスタートでした。とにかく食べていかなければならないし、卒業と同時に結婚もしたので、生活費のためのアルバイトもたくさんしました。でもまとまったお金は稼げず、今考えると奥さんのヒモ状態(笑)。本当にあの頃を乗り切れたのは奥さんの頑張りがあったからだと感謝しています。

 そうこうするうちに、日本の撮影会社から現場コーディネーターの仕事を依頼され、2年働いた後、28歳で初めて演出家として味の素USAのCM製作をしました。その頃から段々焦りが出てきて、30歳になる前に長編映画を撮れなかったら、もう夢は諦めると決め、自分を追い込みましたね。必死で企画を立ち上げ投資も募って、29歳の時に滑り込みセーフで『モンスターズ』という映画を完成させました。ただこれが、苦労して撮った割に泣かず飛ばず(笑)。今の自分から見ると、長編映画の何たるかをわからずにむやみやたらと撮っていた感があって、売れるわけないだろ、という感じですが(笑)。自分の映画だから好きなのですが、反省点ばかりでしたね。

 デビュー作での反省点をもとに撮った2作目『サムライ・アベンジャー』はそこそこ評価されて、某大手配給会社が版権を買ってくれるという話がまとまりかけた時期に、ちょうどリーマンショックが起こってその話が駄目になったんです。そのお金で製作会社を立ち上げ、監督業を軌道に乗せようと計画していたので、この時はさすがに落ち込み、そのままハリウッドで映画監督を続けることに限界を感じました。

 日本人の監督でアメリカで評価されている人は、まず日本でヒット作を持っている。そこで、一度日本に帰って映画監督としてのキャリアを再構築しようと決心し、家族を連れて日本に帰国しました。NHK BSの教育番組のディレクターの仕事をやりながら、映画の企画を立ち上げ、いよいよ作品を作れるかという段階になった時、今度は東日本大震災が起こったんです。日常生活が崩れ、映画製作どころじゃなくなって、奥さんの家族からはすぐアメリカに戻ってこいと言われました。正直、そのまま日本に残って映画を仕上げれば、監督のキャリアとして絶対にプラスになる、という思いはありましたね。サラリーマンでも家庭を取るか仕事を取るか、選択を迫られる場面があると思いますが、その時の僕もそうでした。でも僕には、家族より仕事を取るという選択はありえなかった。それで次の仕事のあてもないまま、家族の住むアメリカに戻ったんです。生活費を稼ぐために、お店の皿洗いでもなんでもしなきゃいけないかな、とまで思い詰めていました。

崖っぷちで得た成功

崖っぷちで得た成功

映画祭「インディーフェストUSA」2009年のグランプリ受賞。キャスト、スタッフと共に


 運命には味方されていなかった感はありますが、拾う神もあるんですね、アメリカに戻ってすぐ、日本の配給製作会社マクザムさんから映画を撮らないかと誘っていただいたんです。人生崖っぷちのチャンスでした。2作目と同じように、俳優、スタッフとも日本人、アメリカ人の両方を集め国際的なプロダクションで撮影に臨んだのですが、面白いことになぜか、僕同様、崖っぷち感のあるメンバーが集まった(笑)。ギリギリの奴らの「今の状況を変えようぜ」って情熱が詰まった作品が3作目の『女体銃Gun Woman』でした。その思いが通じたのか、日本映画監督協会新人賞にノミネートされ、作品自体もたくさんの映画祭で評価していただき、かなりのカルト的なヒットとなりました。

夢に向けて前進あるのみ

夢に向けて前進あるのみ

撮影現場にて。「40代はまだまだチャレンジの時代です」と光武監督

 夢を追いかけて17歳でアメリカに来て、人生の半分くらいをアメリカで過ごし、同じように夢を持って渡米したたくさんの日本人を見てきました。そこにあるのは、成功するのはほんの一握りに過ぎないという厳しい現実。大半の人は夢半ばで日本に帰国したり、LAに来た目的を忘れ、生活のために何でもしながら、LAに住み続けるだけになってしまったり。僕は「LAの魔力」と呼んでいるのですが、LAにはここに住むこと自体が目的になってしまう怖さがあるんです。

 僕と同じように夢を追ってアメリカに来た若い人には人生長いんだから焦るな、とまず言いたい。20代でできること、30代、40代で人生経験を積まないと達成できないことがある。焦らず、目の前にある階段を一歩ずつ上っていけばいいんです。でも同時に、夢や希望を忘れて、何のためにここにいるのかさえわからなくなっては駄目です。実際にお金を稼いで生きていくことと夢の実現を両立するのは本当に難しい。でも夢を諦めず、日本人であるという特長をうまく活かして人一倍努力していけば、活路は開けると僕は信じています。

 この記事のタイトルの通り、僕自身はまだまだチャレンジの真っ只中。20代は勉強に明け暮れ、30代で映画監督としての基礎を作り、40代の今はこれまでの経験を糧にチャレンジの時代だと思っています。今まではバイオレンスアクション映画ばかり作ってきましたが、職業監督として違うジャンルの作品も作っていきたい。そして50代になったら、ハリウッドの映画監督として、自分の力で企画が起こせて映画製作ができるような、これまでの努力の実が収穫できるステージになっているといいですね。夢の実現に向けて、まだまだ前進あるのみです。

作品一覧

作品一覧


左上:初監督作『モンスターズ』

右上:2作目『サムライ・アベンジャー/復讐剣盲狼』
監督&主演を務め、世界16カ国で公開された

左下:3作目『女体銃 ガン・ウーマン/GUN WOMAN』
各映画祭で評価を得て、アメリカではDVD、ブルーレイが発売、及びNetflix、Amazonなどでも配信中

右下:公開前の4作目『Karate Kill』より
主演ハヤテのアクションシーン


映画監督 光武 蔵人氏

Kurando Mitsutake■1973年生まれ。東京都出身。日本映画監督協会会員。米国映画俳優協会会員。California Institute of the Arts映画学科大学院卒業。海外撮影コーディネーター、監督アシスタントなどを経て『モンスターズ』で長編映画監督デビュー。監督・主演作『サムライ・アベンジャー/復讐剣盲狼』(09)は、世界10カ国の映画祭で上映され、16カ国で配給された。『女体銃 ガン・ウーマン/GUN WOMAN』は、第24回ゆうばり国際ファンタスティック映画祭にて審査員特別賞を受賞。第18回ファンタジア国際映画祭(加)、第47回シッチェス・カタロニア国際映画祭(西)などでも好評を得て、第55回日本映画監督協会新人賞にもノミネートされた。監督最新作『KARATE KILL』(16)が公開待機中。また、俳優として米テレビドラマ『アグリー・ベティ』『Heroes/ヒーローズ』や『NHKスペシャル・ナノテクノロジー』(12)に出演するなど、活動は多方面に渡る


2016年03月号掲載