「私」はどこから来たの?先祖から受け継ぐ〝ご縁〟とは

 英語では人間一人、すなわち個人は「I」、GODのもと独立した個人ですから、線が1本で成り立っています。日本語では人間一人は「人」、線が2本で成り立っています。「人という字を見てごらん、互いに支え合っている」という言葉が教えるように、人間は独りでは生きていけません。ただ、「2人で一人前」ということでなく、「たった1つの条件で成り立っているものはない」と捉えてみてください。

 例えば、「私が話す、あなたが聞く」という現象は、私に口、あなたに耳があるという条件だけでは実現しません。そこに空気がなければ音は伝わりません。また、美しく咲く花は最初から花でなく、元は種です。種を放っておいても花は咲きません。光が当たり、雨が降り、地中に養分があって種は初めて発芽し、やがて花が咲きます。種を原因、花を結果としてみましょう。種から花が咲くまでの因果関係には光や雨、養分といった様々な条件が介在しています。このような様々な条件を仏教で「縁」と呼びます。

 この因果関係を「私」に当てはめてみましょう。「なぜ私は存在しているか?」。一神教の理屈でいけば「神(GOD)の創造による」となるでしょう。一方、仏教では森羅万象を司る単体の創造主たるものが見当たらず、この問いの答えはミもフタもなく「親があったから」となるでしょう。2人の親があったればこそ1人の「私」が存在している、と考えます。さらに2人の親は初めから大人であったわけではありません。当然赤ん坊で生まれ、それぞれ育てた両親がありました。「私」から見て4人の祖父母があり、2人の親があったからこそ、1人の「私」があるのですが、さらに祖父母とて最初からお年寄りではありません。それぞれ生み育てた両親があります。「私」から見て8人の曽祖父母。もちろん、ここで終わりではありません。このように2人の親、4人の祖父母、8人の曽祖父母、16人の…というように世代を10代遡ってみましょう。一体何人の方々が今の「私」に関わっていると思われますか?何と1024人だそうです。過去10代で1024人もの方々が、今ある「私」に関わっており、みな「私」がこの世に生まれるのに欠かせない条件、「私の命の縁」です。それはもちろん10代で終わりでなく、数え切ることはできません。

 ところで、私も2人の娘の親です。娘の友達など他の子供さんたちと接する機会も日常的にありますが、申し訳ないけれどもウチの子供が一番かわいいと思います(孫はさらにかわいいそうですね)。「親バカ」に他なりませんが、他のどの子供よりも「元気に強く真っ直ぐに育ってほしい」との願いを抱いています。だからこそ悪いことをすれば叱り、何かに失敗してもすぐに手助けせずじっと見守り、困っていれば心配し一緒に耐え忍びます。我が子に対する愛情と心配と忍耐。これはどの親御さんも同じ思いでしょう。そこで思い当たるのは「私の親もこういう気持ちを私に注いで育ててくれたのか」ということです。そして、その愛情と心配と忍耐には子供が大人になっても終わりがないということです。

 「なぜ死んだ人のために何年も法事をするの?」。過去10代で1024人という「私の命の縁」はただ生みの親とか育ての親という血筋・家筋の関係のみならず、この「愛情と心配と忍耐」の連なりです。これが私たち一人一人の「ご先祖様」です。この「縁」なくして「私」は存在しないのですから、仏教寺院ではお盆や年回忌など「先祖供養」の法事を勤め、亡き方々のために手を合わせるのです。過去の尊い縁を大事にすることは「今ある私」、さらに子孫の未来を尊ぶことに他なりません。先祖供養の仏事は家族の「過去・現在・未来」を結ぶのです。

 「ご先祖様」は時間軸を遡った「私の命の縁」。次回は「私の命の縁」を空間的に考えてみましょう。

浄土宗本院主任 田中孝道

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2016年8月号掲載