悲惨な現状を目の当たりに

悲惨な現状を目の当たりに


 1925年1月に埼玉県入間郡川角村西戸(現:毛呂山町西戸)に生まれました。父は小学校、中学校、高等学校の校長を歴任するような教育者でした。母は私が幼い頃に亡くなり、一人っ子でしたが、近所の川でふんどしで泳いだり、秋には魚釣りを楽しむなど幼少期は自然の中で溌剌と育ちました。旧制川越中学校を経て、18歳の時に東京高等商船学校に入学。当時は戦時下でしたので、商船学校といえども海軍の一つの組織のようになっていて、私の2、3期前の人たちは出征して大勢が戦死しました。1945年3月の東京大空襲の際には、何十万人もの人たちが被災し、大勢の人が学校に避難してきて、戦争の悲惨さも体験した時代です。

 成人した時、日本は第二次世界大戦に敗れて町は焦土と化していました。マッカーサー元帥の命令で海外に残された人を本土に帰還させるために4等航海士としてアメリカのLSTという船に乗り、いわゆる復員業務に従事しました。そこで、凄惨な状況を目の当たりにし、「日本はこれからどうなってしまうのだろう」とまざまざと思い知らされました。

航海士として海を舞台に仕事

 小学生の時、たまたま海に行ったことをきっかけに、海にロマンを感じるようになりました。生まれ故郷に海はなかったので、その分海への憧れが強くなったのかもしれません。1949年に川崎汽船(通称:〝K〟Line)に入社し、貨物船の航海士となりました。ようやく日本の貿易も復活し始めてきた頃です。航海士とは船の航海、操船、積荷の安全などを担当する仕事で、船の運航には欠かせない存在でした。1951年、2等航海士として雪川丸に乗船し、タイのバンコクまでの運航に従事。積荷は鋼材やセメント、雑貨などでした。その2年後の1953年には、ニューヨーク定期航路の国川丸に乗船し、初めてアメリカの地を踏みました。サンフランシスコ、ロサンゼルス、パナマ運河を越えてニューヨークまで往復約4カ月の航海でしたが、当時はまだ世界各国の港は未整備で、ロングビーチ、サンフランシスコも港としては小さいものでした。当時は米西海岸との貿易はごくわずかで、ニューヨークが主流でしたが、その後の極東の爆発的な経済発展に伴い需要が高まり、現在はロングビーチやワシントン州タコマなど西海岸が主流になっています。それでも、近年は太平洋航路でのストライキの影響で、大西洋を運行するルートが注目を集めており、極東から大西洋を使って荷物を運ぶ構想も浮上しているようです。

コンテナとの出会いで一変

コンテナとの出会いで一変

1980年頃、Hotel New Otaniで開かれたITS X'mas Partyにて

 1960年には船長として気候の厳しいアラスカと日本の海上航路開設の視察のためにアラスカに外国船として初入港を果たしました。その翌年の5月に、初代海務監督としてニューヨークに赴任。当時、まだ日本人が自由に外国を行き来することがままならない時代です。憧れの海外生活でしたが、慣れない土地での生活は多忙で、夫婦二人三脚で様々な困難を乗り越えてきました。そんな折、ニュージャージー州で行われたコンテナ披露パーティに招かれ、コンテナという全く新しい輸送システムが人生を大きく左右することになります。「これからの時代は野外保管も可能な全天候型のコンテナが主流になる」と確信。それからはコンテナ普及に没頭する毎日でした。

 しかし、日本に帰国した際は厳しい風当たりが待っていました。当時は「ブレイクバルク」と呼ばれる荷物をバラで船積みして輸送するシステムだったため、コンテナ輸送にはコンテナ専用の全く新しい船を作る必要があったのです。さらに巨大クレーンを使った埠頭も必要で、「お前は会社を潰すつもりか」とまで言われて四面楚歌になりました。私が船長をしていた時の船は全長約100メートル程でしたが、現在のコンテナ船は全長約380メートルに達するということから見ても、その違いは歴然です。

 その当時、コンテナは金ばっかりかかって儲からないと運輸省も思っていましたので、コンテナ輸送の利点をなかなか会社に納得させることができませんでした。しかし、私の中ではコンテナ輸送は荷物が傷つかないし、輸送は完璧であることは間違いないという確信めいたものがありました。バラ積みだと荷物のハンドリングが煩雑ですし、極東の経済がすごい勢いで伸びてくる様を数字で眺めていましたから、将来的には太平洋航路が伸びてくることも先読みできていました。けれど、その頃コンテナで業界は潰れるという考えが広まっていたせいで、コンテナを太平洋航路でやることに日本は大反対。鉄壁だとわかっていても、お金がかかるから駄目だというのが会社の言い分です。それでも決して諦めませんでした。社内での粘り強い説得の末、1971年にITS (International Transportation Service Inc.)を設立し、遂にコンテナ専用の埠頭をロングビーチに建設しました。

ITS2代目社長に就任

ITS2代目社長に就任

1995年11月、物流業界においての功績が認められ、勲五等を授与された

 初代社長はユニオンとの交渉などに適任ではなかったこともあり、1972年に2代目社長に就任することになり、ロングビーチに赴任しました。ユニオンとの交渉は、単に話し合いをするだけでは箸にも棒にもかからない世界。お互いに協力して大きくなろうということで納得してもらうわけですから、ギブ・アンド・テイクで進めなければいけません。労使問題には本当に骨を折りましたね。

 さらにITSは〝K〟Lineの継子扱いのため、本社から面倒を見てもらうことができなかったので、自分たちでお金を作り、顧客開拓までしなければならず、その点でも絶えず苦労がつきまといました。そのため、パーティなどに積極的に顔を出し、妻と一緒にアメリカ人と交友して、人脈を広げる努力をしたり、顧客を得るためにスウェーデン、イタリア、ドイツなど7カ国を妻と回ったりもしました。

 日本から進出してきた私たちが既存の会社と同じことをやっていても顧客が取れるわけがないのです。合理化するのは当たり前ですが、どうやって改善し、魅力的なものにするのかという企業努力を常に模索してきました。その甲斐あって実際にロングビーチに来て港を見てもらえば、一目瞭然で皆さん来たいという気持ちになってくれました。

 初めは60エーカーほどの敷地でしたが、やるからには先を見据えて大きなターミナルを建設して、少人数で運営するという根本的な構想がありました。そうなると、大ターミナルは莫大な手間と費用がかかりますから、今度はそれを埋めていく方法を練らなければなりません。ターミナルの増設を自社でするのと他に頼むのでは、雲泥の違いなので、できる限り自分たちで工事をするようにしました。ITSはそうしているうちに業界で最大手となり、今度はその儲かったお金を自分たちに投資することができるまでに成長しました。

オンドックDSTで輸送革命

オンドックDSTで輸送革命

2005年8月、二世ウィークのパレードにて


 地道な活動でITSがドル箱に成長した1980年代には新しいプロジェクトとして「オンドック」構想を打ち上げました。オンドックとはコンテナを船から直接貨車に積み込み輸送するものです。それまでは港から離れた内陸にある鉄道ターミナルで貨車積みし、そこを基地として列車を出していましたが、非常に不便で、とてつもない費用がかかっていました。それを港内に置くことで、より効率化を図ったのです。さらにコンテナを二段重ねにするDST(ダブル・サック・トレイン)で、一度に倍の荷物を運べるようにしました。そして、遂に1986年、ロングビーチからDSTをシカゴ、ニューヨークに向けてスタートさせました。その後、ロングビーチ港はコンテナ取扱量でニューヨークを抜いて全米最大の港に発展したのは、皆さんもご存知の通りです。

 DSTが広がり、次はワシントン州タコマで仕事をしたいと港湾局に申し出ました。当時は近隣のシアトルが大きな港でしたが、立地条件が良くありませんでした。それに比べてタコマは6000エーカーもの土地があり、一流のターミナルが作れると確信していました。ですが、〝K〟Lineはシアトルに大きな代理店を持っていたので、またもや大反対。そんな時、「浅見がやるなら任せよう」と納得してもらい、タコマに港を建設したのです。周囲からはタコマに〝K〟Lineの船が入ってくることはないと言われましたが、タコマと手を握ってやるならいくらでも顧客は付くはずだと大見得を切りました。けれども、実際には2年経っても3年経っても顧客が付かない。それでもその間、ターミナルの使用料は払い続けていました。そんななか、ヨーロッパのマースクラインという会社が、我社が運営しているターミナルを使いたいと申し出てきたのです。それが契機となり、数年で黒字に転換することに。今ではロングビーチに続いて全米第2のターミナル港として発展を遂げています。

引退後も業界の未来を危惧

引退後も業界の未来を危惧

2010年、現在の自宅に引越した当時、3人の子供たちとの記念撮影

 ITSの社長として20年、その後は会長職で5年間働きましたが、私がいるといつまでも私のところにばかり人が頼って来てしまいます。常に船頭役は先を見通した上で、一歩一歩進んでいくことが求められます。物事をどういう風に処理して、こなしていくのかという根本をわかっていないと駄目ですから、このままでは後継者がいい迷惑で、責任を持った仕事ができないと会社の未来を案じて1997年に勇退しました。引き継ぎには4、5年の時間をかけ、その間にも方々から声をかけていただきましたが、きっぱりと辞めました。

 また、在職中の1995年にロングビーチ港湾局や連邦政府から「Farther of On Dock Rail」という称号をいただだいたことは、生涯忘れられない出来事の一つとして胸に刻まれています。

 早いもので引退してから18年が経ちます。現在91歳になり、体力も衰え、今では日本に行く機会もなくなりました。昔は日本各地を妻と一緒に旅して回ったり、パームスプリングスの別荘に週末になると出掛けてはゴルフを楽しみましたが、ゴルフはもうやっていません。父も他界して日本に帰る家も残っていませんから、このままアメリカで余生を過ごすのも悪くないかなと妻と話しています。

 やはり、生涯かけて取り組んできた仕事ですから、今でもITSのことは気になりますね。終戦後の時代が時代でしたから、人や港に夢がありました。時代を元に戻そうとは思わないけれど、今の自分が携わった貨物やコンテナの状況を見ると少し寂しく感じます。運送方式を変えるだけで世の中が変わり、もっとビジネスが良くなっていくんじゃないのかな。今から何もかも新しくするというのは難しい話でしょうが、世界全体でどうすれば合理的な港運営ができるのか、話し合うチャンスがあれば、平和にも繋がっていくように思います。会社にお邪魔する機会はそうそうありませんが、何年経ってもITSがどうなっているのか、これからも会社の行く末と港の未来を信じて見守っていきます。


「キャプテン・アサミ」として知られる浅見紳太氏

Shinta Asami■1925年、埼玉県入間郡川角村(現:毛呂山町)生まれ。父は小中高等学校の校長を歴任。43年、東京高等商船学校に入学。終戦後の45年、アメリカのLST船に乗船し、復員業務に携わる。49年、川崎汽船入社。51年、2等航海士として雪川丸に乗船し、バンコクまで初の海外航路に従事。53年、國川丸に乗船してサンフランシスコ、ロサンゼルス、パナマ運河を越えニューヨーク往復の約4カ月の航海で、ロングビーチ港に寄港。61年、初代海務監督としてニューヨークに赴任。71年、ロングビーチ港にコンテナ・ターミナルを開設し、ITSを設立。72年、ロングビーチに赴任以来20年間社長を務めた後、会長として5年間勤務。97年に引退し、現在もロサンゼルスで妻の敏子さんと暮らしている。埼玉県人会発足メンバー


2016年03月号掲載