18歳で大金を稼ぐ

18歳で大金を稼ぐ
©Emi Weinsieder


 水戸で3人兄弟の末っ子として、地元で中小企業を営む家庭で育ちました。父は技術者ではありませんでしたが、戦後の高度成長期の最中、紆余曲折がありながらもプラスチックや自動車のパーツを生産する会社を経営して家計を支えてくれました。1972年に高校卒業後に、若気の至りと言うのでしょうか。予備校に入学しようと上京したはずが、勉強はそっちのけで自動車のエンジン部品を売るマルチ商法にのめり込んでいったのです。これが大当たりしまして、大学に行く気が一気に失せてしまいました(笑)。しかし、すぐにそのマルチ商法は新聞で叩かれ、直後に倒産。私が実際にマルチ商法をやっていたのは数カ月間だけでしたが、18歳の若造が何千万円もの大金を何の苦労も知らぬうちに手にしていました。

 その後、両親から取り敢えず大学には進学しなさいと言われ、1973年に東京の和光大学経済経営学部に入学。東京での大学生活が始まりましたが、いかんせんお金を持っていたので遊んでばかりで、大学にはほとんど通いませんでした。どうやって卒業できたのかもあまり覚えていないくらいです(笑)。その当時、私の周囲にいたのは、いかに稼ぐかということだけを考えている年上の人ばかり。皆さんお金があって、若くして家を購入した人や高級車を乗り回しているような人たちに憧れましたね。若い時分に大金を掴んでしまいましたが、早いうちにその道が絶たれたお蔭で道を逸れずにやってこられた。まぁ、それも運が良かったんでしょうね。

白人の中流家庭にホームステイ

白人の中流家庭にホームステイ

父はかなり怖かったので、育った環境で怖さには慣れていたため、事業をする上で度胸はあった

 1977年に大学卒業後、留学していた4つ上の兄の影響もあって渡米を決断。ちょうどその頃、水戸市とアナハイムが姉妹都市になり、兄がその架け橋のような活動をしていた縁で、アナハイムから水戸に来た年配のアメリカ人が実家にお昼を食べに来たことがありました。その方に、「アメリカに行ったらホームステイできますか?」と尋ねたら、自分たちは旅行ばかりしているから、息子夫婦の家にホームステイしたらどうだと言ってくれたんです。それを頼りに23歳の時に渡米し、ヨーバリンダで暮らす息子さん夫婦の家庭にホームステイをすることになりました。息子さんはスタンフォード大学を3番で卒業したようなとても優秀な弁護士で、このホームステイが今日の私を形成する大きなきっかけになったと言っても過言ではありません。

 ゴルフ場のすぐ脇にある豪邸に住む白人のアッパーミドルの家庭。様々なパーティや高級レストランにもたくさん連れて行ってもらい、決まって金曜の夜は料理が趣味の奥さんが腕を振るってくれました。その夜は自宅でも正装をしてフォーマルディナーを楽しむような家庭でしたから、マナーや社交性を学ぶことができたのは、彼らの影響がとても大きかったですね。今、全米を相手に渡り歩いていけているのも、この時のホームステイを通じてアメリカ人の生活やマインドがどういうものなのか、またパーティでの交流を通じてビジネスにつながる道を学ぶことができたお蔭だとつくづく思います。私が独立してからも顧問弁護士になっていただいたりしながら交流を続け、今でもメンターとしてかけがえのない存在です。

日系の金物会社に就職

日系の金物会社に就職
©Emi Weinsieder

現在、Intercorpで販売している800種のネジの一部

 兄の知り合いでアナハイムで貿易商を始めた人と知り合いました。会社を手伝ってくれたらビザを取ってくれるということで、1978年にその会社に就職。社長と受付の女性2人しかいないような小さな会社でしたが、ドアノブ、ボルト、ネジなどいわゆる金物全般を取り扱っていました。入社直後に台湾の大きなボルトメーカーと資金不足のため合併となり、彼らに華僑(台僑)の商売を学びましたね。永住権をサポートしてくれたこともあり、その会社には10年勤務。数年で合併は解消しましたが、その頃には経営面まで私が見るようになっていました。オーナーは本業ではかなり儲かっていましたが、最後は多角経営がたたって、給料が支払えなくなり、36歳の時に辞めざるを得ませんでした。

 プライベートでは、アダルト・スクールに通っていた当初、そこで知り合った女性と半年で結婚。25歳の時でした。もともと三男坊で寂しがり屋。一人では生活できないタイプだったので躊躇なく結婚して、すぐに長男を授かりました。貿易会社を辞めた時には既に子供が3人いて、一番上の子は9歳に。帰国も選択肢にありましたが、日本でどうやって就職をしたら良いかもわからない。今さら日本に帰ってどうするんだという思いもあって葛藤しましたね。父の会社は兄が継いでいましたから、やはりこちらに残るしかないだろうと決断し、1988年にIntercorpを設立しました。

培ったノウハウを生かして独立

培ったノウハウを生かして独立

2014年10月、Fastener Conventionに参加した際に社員たちと

 勤めていた会社は、金物とボルトがメインで、ネジは自動車関連のものを扱っていました。商品がバッティングしないように、建築関連に特化した特殊ネジでビジネスを始めることに。コンペティターにならないようにということはもちろんでしたが、大きな物を扱うにはそれなりに大きなお金が必要になるので、それを考えると資金面でも特殊ネジが最適でした。仕入れ先は主にアメリカ、台湾、韓国、そして少量ですが日本もあります。

 現在はロサンゼルスの本社以外に、ポートランド、シカゴ、クリーブランド、ダラス、ヒューストン、アトランタとマイアミに支店があり、近い将来、ニュージャージーにも進出予定です。なぜそんなにたくさんの支店を出すかというと、電話注文を受けて顧客がピックアップに来るWill Callや地場の利益率の高い仕事をメインにしているからです。大量売りする大手とは一線を画し、小回りが利く商売で勝負しています。その方が量はそう多くなくても、効率が良いですから資金も回るのです。また常に700〜800万ドルの在庫を保有し、顧客のニーズに対応。毎月約3億本の特殊ネジを販売し、年商も毎年上昇しています。

 私どもの顧客のほとんどが従業員100人以下の会社で、6000社に及ぶ取引先は、すべて米系の建築関連の会社です。日系や日本人との取引は全くありません。私の方針として「日本」を一切表に出さずに、アメリカ人を相手にする商売に徹しています。従業員にも日本人や東洋人はいません。創業28年目になりますが、支店を出すたびに売り上げが8〜10%上がっています。特に東海岸はマーケットシェアが伸びているため、再来年くらいには売り上げ15〜20%アップの見込みで、東海岸支店の拡大も現在、検討している状況です。

本当の仕事は就業時間後

 独立して半年後にはきちんと利益も出せたので、今まで失敗したと思ったことは一度もありません。今のビジネスモデルは、独立した時に自分で考案したものですが、資金が豊富にあるわけでもなかったためノーチョイスでニッチなマーケットを選びました。天才と頭で勝負して張り合っても勝てる見込みは低いでしょうが、同じ人間ですから時間をかければ勝てると信じています。ですから独立してからの3年間は朝7時に出社して深夜0時過ぎまで働き詰めでした。前職でも、「もう帰っていいよ」とボスから言われても、残ってボスのやっている仕事を見て、たくさんのことを学ばせてもらいました。仕事を覚えるのは、理屈ではなく就業時間が終わった午後5時以降からだと誰に教わることなくそう思っていました。その時間になるとボスにも時間の余裕ができますから、日中聞けなかったことや納得がいかなかったことの質問ができますよね。残業手当はありませんでしたが、誰よりも早く出社して鍵を開け、最後に閉めて帰るのが自分の仕事だと思って10年間その生活を続けてきました。仕事がなくても、本を読んでもいいから会社にいる。そうすることで、何かが見つかったり、新しい発想が生まれたりするんです。そうやって、自分の居場所を作り、やるべき仕事を覚えていくのだと実感しています。

年齢と共に日本が恋しく

 会社も創業28年目を迎えました。経営的にも落ち着き安定していることもあり、もっぱらの楽しみはゴルフと仕事がてら日本へ行くことです。3人の子供たちも大きくなって子育ても終わり、安定した収入もあって、欲しい物は無茶を言わなければ何でも買えるくらいにはなったと思います。ただ、欲しい物は特にないんです。その反面、歳を取れば取るほどに、日本が恋しくなってきましたね。日本に行きたいがために、日本を拠点に出張できるようにと、15年ほど前に大阪に現地法人も立ち上げ、この10年ぐらいは頻繁に日本に行くようになりました。とはいえ、アメリカの良さは捨てきれず、将来的にアメリカと日本の両方に生活拠点を置くというのが当面の目標でしょうか。

 それと、仕事中は日本語を一切使わないので、仕事終わりにLINEなどで、「今夜暇な奴いるか?」と声をかけて、日本人の友人と食事に出掛けたり、話をするのが楽しく息抜きになっています。その時は、自分にとって貴重なリラックスできる時間なので、仕事の話は極力しませんね。

 会社のことを考えるとまだまだ現役で辞めるわけにはいきませんが、支店を増やすたびに、妻が「そろそろ、もういいんじゃない」と言ってくれます。しかし、そうはいっても従業員のことを考えると、今、立ち止まるわけにはいきません。私共が販売している建築用の特殊ネジの業界において、うちのシェアはまだ全体の10%くらい。この業界でうちの会社が伸びる余地は十分にあるので、今後3年で年商5000万ドルを達成することを目下の目標としています。

 最後に、素晴らしい従業員、家族、友人たちに恵まれ感謝しています。妻の内助の功も成功の大きな要因でした。

 遠大な望みを持ってアメリカ社会のビジネスに挑戦して今日まで歩んできましたが、これからも変に背伸びをすることなく、我が道を勇往邁進して参ります。創業30周年を目前に感慨深い思いです。

~信条~

一方を聞いて沙汰するな

NHKの大河ドラマ『篤姫』で、鹿児島から江戸へ嫁ぐ前に母親が篤姫に諭した言葉。色んな人の意見を聞いてから、きちんと自分の考えで指示を出しなさいという意。


INTERCORP DIV. U.S. Nitto Corp. President/Owner ジョシュ 阿部氏

Josh Y. Abe■1953年7月7日茨城県水戸生まれ。和光大学を卒業した1977年に渡米。ホームステイをしながらサイプレスのアダルト・スクールに通う。1978年から10年間、日系の金物販売会社に勤務。1988年、36歳の時に特殊ネジを販売するInter-corpを設立して独立。業界唯一の日本人社長として、シカゴやポートランドを始めとする全米8つの支店及び関連会社インターコープジャパンを統括

会社概要

社名: INTERCORP DIV. U.S. Nitto Corp.
本社・工場所在地: 641 N. Poplar St., Orange, CA
事業内容: ネジ一般、主に建築用特殊ネジを輸入・在庫し、全米主要都市8カ所の営業所と倉庫から全米6000社のディストリビューターに卸している
売上: 3,500万ドル (2015年度)
従業員数: 60名
創立: 1988年
Web: www.strong-point.net


2016年03月号掲載