命の恩に報いる「いただきます」

 前回、仏教の因果の法を当てはめて時間軸を遡ると、過去のご先祖様という縁に恵まれ「私」が存在していること、また先祖とはただ血筋・家筋のみならず、親から子への愛情・心配・忍耐のつながりであることについて記しました。今回は「今ある私」を支える空間的な縁を、アメリカですからハンバーガーを例に考えてみましょう。

 ハンバーガーの構成要素はと言えば、レタス・トマト・タマネギとバーガー、ケチャップとマスタードに上下のバンズ。この目の前のバーガーとトマト等の野菜は突然現れるわけではありません。種から育てて栽培する方がいてできるものです。バンズも、種を蒔いて小麦を育てて、小麦を挽いて小麦粉にして、パンを焼く人がいてこそです。こうした栽培にあたって、太陽に適度な雨や肥えた土質などの環境が不可欠なのは言うまでもありません。主役のバーガーはもちろん牛肉です。パンや野菜や牛肉が産地で生産されるだけではハンバーガーになりません。それを運ぶトラックがあって燃料があって運転する人がいて初めてハンバーガーの具が一堂に会します。さらに食材を調理する人がいてやっとハンバーガーの姿になります。ハンバーガー一つでさえ、こうした数え切れない条件によってできています。こう考えると、食事とはすべて、無数の縁の不思議な網目の上に成り立つものと言えます。

 「なぜいただきますと言うの?」よく耳にするのは「ご飯を作ってくれた人に、お百姓さんに、天地の恵みに感謝する」ために「いただきます」と言う、との反応です。しかし、感謝する意味であれば「ありがとう」と言えば良さそうなもの。実際、キリスト教のグレイスは食事を与えてくれた神への感謝の祈りですよね。日本語ではなぜ「いただきます」という言葉になるのでしょう?一体、何を「いただく」のでしょうか?もちろん、命です。食事とは他の動植物の命を取る行為、すなわち「殺生」です。

 「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」という仏教の言葉があります。すべての命に仏の種が宿っており、この世に存在する形体は異なれど命の尊さは人間のそれと同じです。そうした動植物の命を取り、自分の身体の養分とすることでしか生きられないのが私たちです。その私たちが、単に空腹を満たすために他の命を貪るのは「食う」こと、自分の健康のために食材を選り分け口にするのは「食べる」こと。そして、すべての食事を殺生と捉え、犠牲となった命の恩を知り、その恩に報いようとするのが「いただく」ことなのです。

 「なぜ食事を残しちゃいけないの?」。もう答えは明白ですね。ある番組で観たのですが、野球のイチロー選手は焼肉屋に行くと肉を焦がさないように1枚ずつしか焼かないそうで、一緒に食事した選手が「時間がかかって仕方ない、どうして?」と聞くと、次のようなことを言っていました。「このために牛が1頭犠牲になっている。何が一番供養になるかと言えば、一枚一枚を美味しく無駄にせず食べることだから」。

 どなたも幼少時に言われたであろう「一粒残さず食べろ」は、出された食事のすべてを残さずいただくことが「その命を生かすこと」であると教えています。犠牲となった命に対しては、そのすべてを我が身の糧とさせていただくことでしか報いることができません。キリスト教のグレイスにおける感謝の対象が神であるのに対し、日本語の「いただきます」は、数え切れない縁の結果としてある「目の前の食材」、すなわち「命」に向けられています。命を取ることを謝ると共に、そのすべてをエネルギーとして我が身にいただき、自らの勤めにいそしむことを誓う言葉が「いただきます」なのです。

 食事をしない日はありません。家庭でも外食でも、食前に一言「いただきます」を忘れずに!

浄土宗本院主任 田中孝道

Jodoshu North America Buddhist Missions
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2016年9月号掲載