お互いさま・おかげさま・思いやり

 これまで「今ある私」を仏教でどう考えるかを記述してきました。お釈迦様は誕生するとすぐに七歩進み、天と地を指差して「天の上にも天の下にもただ我独り尊し」と言われたという伝説があります。傲慢に聞こえますが、本来の意味はこの「今ある私」の有り様を示すものです。

 前々回触れたように、ご自分が存在する条件を過去に遡れば、皆それぞれ、十代で一〇二四人ものご先祖の命の連なりの結果です。それは単に血筋・家筋のみならず、「親から子へ」の愛情・心配・忍耐の思いが皆さまに連なっているのです。このことだけで、誰もが他に代わりのない特別な存在であり、声高に言う必要もなくオンリーワンです。誰よりも自分が大事、自分の子供が一番、自分の家族・故郷・会社・仕事が一番…つまり「我独り尊し」。それは誰にとっても同じことで、一言で言えば「お互いさま」です。

 前回、「私」が今生きている、すなわち食べて命をつなぐことができる条件を空間的に探せば、動植物から天地まで広がる無数の条件の連なりに帰結することを記しました。すべての「命あるもの」に仏の種が宿っており、その尊い命を取ることで私達は命をつないでいます。だから「殺生で奪う命を生かすこと」を誓い「いただきます」と言いますね。

このように、時間を遡れば無数のご先祖の縁に、空間を広げれば無数の命あるものの縁に支えられているのが「今ある私」です。掲載初回に触れたように、英語の「I」と違い、日本語の「人」は線が二本で成り立っています。「人という字を見てごらん、互いに支え合っている」。つまり「私(人)」はただ一つの条件(I)だけでなく、時空を超えた無数の縁(YOU)に支えられて存在しています。一言で言えば「おかげさま」です。

 誰もが「お互いさま」「おかげさま」の存在であるならば、他者を敬うことは自分を敬い、他者を疎かにすることは自分を疎かにすること、というのが真理です。その真理の実践が「思いやり」と言えるでしょう。ただし、この「真理」なるものを池の底に落ちている財布としましょう。池の水が波打って濁っていては財布は見えません。思いやりも、自分の心が波立ち濁っていてはできないものと思います。ただでさえ「自分かわいい」の私たちですから、ともすれば亡き方の供養を疎かにしたり、食事を残したりと「おかげさま」の恩は忘れがちでは?とすれば、他者を敬うには、まず謙虚に自己を見つめ、波立つ心を穏やかにし、少しでも濁りを浄める必要があります。

 仏教では「道」という理念があり、「思いやり」を言葉と身体の稽古を通して身につける伝統(仏道)が伝えられてきました。浄土宗で言えば念仏であり、その実践は必ず声に出す言葉(南無阿弥陀仏)と身体(合掌・礼拝)を伴います。こうした稽古により心を育てる伝統は、日本人の生活の中に生きています。例えば、茶道等の芸術から柔道や剣道等の武道に至るまで、みな礼に始まり礼に終わる「道」であり、その目的が単なる技術の習得でないことは明白です。この伝統は日常の挨拶にも生きており、「いただきます、おはようございます」といった言葉に必ず礼が伴うのは象徴的です。試しに「ありがとう」か「ごめんなさい」と言ってみてください。意識せずとも頭が下がるはず。もう理屈を超越した話です。「子供は親の言う通りにせず、親のする通りにする」と言います。こうした伝統を次世代に伝えるには、自分自身が実践しなければいけないのですね。

 さて、四回にわたり仏教に基づく日本の慣習について思うところを記してきましたが、これもアメリカ社会という良き対比があるからこそ思い当たることと思います。お付き合いくださり有り難うございました。

浄土宗本院主任 田中孝道

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2016年10月号掲載